logo 溺れた巨人


溺れた巨人

  The Impossible Man and Other Stories (1966)
  邦訳: 溺れた巨人 創元SF文庫(1971)


The Drowned Giant 溺れた巨人 (1965) 訳:浅倉久志

嵐の去った朝、浜辺に巨人の死体が打ち上げられた。最初はおそるおそる様子をうかがっていた人々も次第に大胆に死体に近づくようになり、最後には死体は解体され、方々へ持ち去られてしまう。そしていつか巨人の死体は人々の記憶から消えて行く。巨人の死体の出現というSF的イベントを扱いながら、バラードが描くのはあくまでそれに宿命的に惹かれる主人公の心であり、そこに投射された風景である。全編を覆う奇妙な静けさが秀逸。

The Reptile Enclosure 爬虫類園 (1963) 訳:浅倉久志

浜辺のカフェでペラムは砂浜を埋め尽くしたおびただしい数の人々を見ている。彼らは何かに反応して水辺に集まり、水平線の彼方を凝視し始める。そして、ある瞬間、一斉に立ち上がり水の中へと殺到するのだった。彼らを動かしたのは打ち上げられた人工衛星の放つ赤外線であり、それが人間の「生得的解発機構」のトリガーだった。人間の中に眠る太古の遺伝子的記憶が人工衛星と呼応するというモチーフはいかにもバラードらしい。

The Delta At Sunset たそがれのデルタ (1964) 訳:浅倉久志

謎の段丘遺跡の発掘調査に従事するギフォード博士は、足を負傷し病状は悪化の一途をたどっている。彼は帯同した妻と助手のラウリー博士の不義を疑いながら、助けを呼ぶことを拒絶してただデルタを眺めている。そこには夜になると何匹もの蛇が姿を現し、ギフォードはその姿に見入るのだった。妻やラウリーはギフォードに話を合わせているが、その蛇はギフォードの幻覚だった。強烈な風景が人間の内部を徐々に浸食して行く物語だ。

Storm-Bird, Storm-Dreamer あらしの鳥、あらしの夢 (1966) 訳:浅倉久志

農作物に散布した成長促進剤の影響で巨大化した鳥たちの襲来と戦うクリスピン。彼は鳩の羽根を拾い集める女キャサリンと知り合う。彼女の夫は巨大化した鳩に殺されたのだった。クリスピンは彼女の気を引くため、巨大な鳩の死骸の中をくりぬき、着ぐるみにしてそれを身にまとう。ここでもバラードは、巨大化した鳥の襲来という魅力的なアイデアを提示しながら、スペクタクルよりはそこに生まれる人間の心理の変化を徹底して描く。

The Screen Game スクリーン・ゲーム (1963) 訳:浅倉久志

「ヴァーミリオン・サンズ」シリーズに属する作品のひとつ。画家のポール・ゴールディングは映画撮影にやってきたキャラバンに背景となるスクリーンの制作を依頼される。そしてポールは十二宮を描いた巨大なスクリーンの影をさまよう美しい女エメレルダと出会う。それぞれに病んだ精神を抱えながらどこか平板なやりとりを繰り返す登場人物たち。宝石を象嵌された虫たちが最後に重要な役割を果たす。熱の中で悪夢を見ているようだ。

The Day Of Forever 永遠の一日 (1966) 訳:浅倉久志

地球がほとんど自転しなくなり、すべての都市が特定の時間で固定されてしまった世界。ハリデイはリビアのレプティス・マグナ近くにある「七時のコロンビーヌ」に棲みつき、その放棄された黄昏の街に居残った者たちと出会う。物語は陳腐だが、昼夜の移り変わりがなくなることによって時間が凍結するというビジョンは時間の相対性へのバラードのオブセッションを裏づけるもの。ここでも決定的なことは既に起こってしまっている。

Time Of Passage うつろいの時 (1960) 訳:浅倉久志

人が墓から生き返り、次第に若返って最後は母胎に戻って行く世界。着想としてはディックの「逆まわりの世界」とまったく同じである。もちろんバラードの世界にあってはその理論的な説明は行われず、ただ、そのような世界に生きる人々の様子が淡々と描かれるのみであり、SFというよりむしろファンタジーと言ってもいいような作品だ。登場人物の墓碑銘が「終わりは始まりなり(The End is but the Beginning)」というのが素敵だ。

The Gioconda Of The Twilight Noon 薄明の真昼のジョコンダ (1964) 訳:浅倉久志

外傷で一時的に視力を失い、自宅で療養中のメイトランド。それを補うように彼の聴覚は敏感になるとともに、経験したこともない景色が彼の意識に繰り返し現れるようになる。青い断崖、高い破風のある家、並べられたいくつもの鏡。彼は次第に幻視に耽溺するようになり、その意味を探ろうとする。ついに傷が癒え、視力を回復しても、彼はその魅力から逃れられないのだった。不気味なラストシーン、解釈は難しいが強い印象を残す作品。

The Impossible Man ありえない人間 (1966) 訳:浅倉久志

ある日交通事故で片足を失った少年コンラッド。彼は医師の勧めに応じて足の移植を受ける。その足は彼を跳ね、その事故で死んだドライバーの足であった。コンラッドは、高齢化が進み老人ばかりになった社会で、移植医療がなぜか老人たちに忌避されていることを知る。これも解釈の難しい作品だが、自己同一性に関する問題なのか、あるいは不必要に引き延ばされた生を拒否し死へ向かう心性の問題なのか。ラストにはやや唐突感が残る。



Copyright Reserved
2010 Silverboy & Co.
e-Mail address : silverboy@silverboy.com