logo JGB長編レビュー 1988-2000


ここでは88年の「殺す」から最新作の「スーパー・カンヌ」までを取り上げる(但し91年の「女たちのやさしさ」は「太陽の帝国」と合わせて別に論じる予定)。「殺す」から94年の「楽園への疾走」までは6年のインターバルがあり(その間に「女たちのやさしさ」がある訳だが)、「殺す」はむしろ前年の「奇跡の大河」と時期的には近いが、内容的には明らかに「コカイン・ナイト」や「スーパー・カンヌ」と共通点があるため、こちらのグループに入れることにした。

人間の心の奥、あるいはさらにその向こう側に広がる未知の空間に踏み込んで行こうとするバラードの目線はこの時期においてもまったく変わっていないが、この時期の作品の特徴のひとつは作品がリアルな現代社会を舞台にしていることだろう。バラードはもはやその「特殊な」思考を表現するために荒唐無稽な舞台装置を必要としなくなったのかもしれない。「あり得ない」状況の中にゾッとするような真実の瞬間を忍ばせる手法から、当たり前のミステリーの中に目もくらむ現実の裂け目を描く方法論へ。

そう、ミステリー仕立てもこの時期のバラードの特徴のひとつだ。しかし、実際のところバラードは謎解きになどまったく興味はない。それはひとつの「語り」のスタイルという以上の意味は持たないのだ。かつて、彼にとって「SF」がそうだったように。リアルな現代小説、あるいはミステリーの形式を借りながら、彼が繰り返し語りかける物語は少しも変わってなどいないのだから。


Running Wild 殺す 1988 (東京創元社 山田順子・訳)

前作「奇跡の大河」からわずか1年のインターバルで発表された作品で、分量的にも他の長編よりは明らかに短く、中編小説と言ってもいいだろう。ロンドン郊外に造成された高級住宅地で、その地区に住む32人の大人全員が殺され、13人の子供たちが忽然と姿を消した。事件の真相を究明するために招かれた精神分析医のクレヴィルは、やがてだれもが認めようとしない奇妙な結論にたどり着く。

世間が認めているように、何者かが大人たちを虐殺し、子供たちを連れ去ったのではなく、子供たちが大人たちを殺した後、どこかに姿を消したのだ。そう考えればすべての説明がつく。そしてその仮説を裏づける痕跡が次第に明らかになって行く。子供たちは、ビデオカメラで外界から守られ、社会的な地位の高い裕福な専門職の両親の大きな愛情を受けていた。「いい子」でいるしかない閉じたコミュニティの中で、子供たちは少しずつ取り返しのつかない鬱屈を抱え始めていたのだ。

この物語はミステリ調で進行する。事件は既に起こっており、謎が提示され、主人公がそれを解いて行く。だが、これは純然たる意味でのミステリではない。謎そのものの答えは比較的容易に想像がついてしまう(特にバラードのファンならば)し、謎解きの手順が鮮やかだという訳でもない。そんなことはこちらも期待していない。むしろ、ここで読まれるべきなのは、子供たちがなぜ、そしてどのように、自分たちの親を皆殺しにしなければならない場所まで自分たちを追いこんでいったのかということだ。

「監視カメラやめじろおしのレクリエーション・スケジュールのせいで、子どもたちは自宅に閉じこめられた囚人も同然だったのだ」。「あらゆる自己表現を否定され、両親の無限の忍耐によって、最大のわがままといえる衝動をも封じこめられ、子どもたちはほめられる行動しかできない、という終わりのない円の中に閉じこめられてしまった」。「全体的に見れば正気で健全な生活の中で、狂気だけが自由だったのだ」。

清潔で安全ですべてが行き届いたコミュニティの中で正気を保ち、生き長らえるためには、逆にデタラメな暴力やセックスが重要な意味を持つというパラドックス(本書にはセックスは出てこないが)。この作品には、「テクノロジカル・ランドスケープ三部作」から既にその萌芽が見られたバラードの思想が、最も無防備で、最も純粋な形のまま描かれている。

作品としては答えを急ぎすぎた印象があり、また、着想もバラードにしては理解しやすいものだが、その分、核心が直接読者の手に委ねられる近さがある。バラード世界への入口としては意外に入りやすい作品かもしれない。
 

 
Rushing To Paradise 楽園への疾走 1994 (東京創元社 増田まもる・訳)

「殺す」のあと、自伝的作品である「女たちのやさしさ」を挟んで1994年に発表された長編。「アホウドリを救え」というスローガンの下に南太平洋に浮かぶフランスの核実験場サン・エスプリ島に上陸した16歳の少年ニールはそこでフランス軍の兵士に足を撃たれる。だがそのニュースのおかげで彼らの運動は一躍注目を浴び、サン・エスプリ島はやがて希少動物のサンクチュアリとして彼らに解放されることとなった。しかし、運動の主導者であるドクター・バーバラは次第に異常性を露わにし始める。

ドクター・バーバラはかつて自分の担当する患者を安楽死させたとして訴追された40代の女性医師である。ニールは彼女に抗い難い魅力を感じ、運動そのものよりは彼女に付き従って南海の孤島に赴くのである。環境保護運動に見えた彼らのグループの活動はいつの間にか変質し、ドクター・バーバラは男性を殺し始める。

「自然保護区がほんとうはなんのためにあるのか考えてみて。(中略)鳥のためなんかじゃない――アホウドリは世界中にいくらでもいるわ。(中略)絶滅の危機に瀕しているのはわたしたち。(中略)そうよ! わたしたち女よ!」

最も若いニールだけを「種付け役」とする以外、すべての男性たちはドクター・バーバラによって殺され、ニール自身もまた、彼より若い少年の登場によってコミュニティを追われる。だが、この極端な女性中心主義そのものはここでの主要なテーマではない。バラードが描きたいのはおそらく、ある集団が孤絶した環境の中で一人のエキセントリックな人物に導かれて異常な信条を奉ずるカルトにたやすく変化して行くプロセスそのものだったのではないだろうか。

ドクター・バーバラが初めから女性のための「保護区」を目指していたのかどうかは明確には描かれていないが、彼女はおそらく何であれ日常を激しく異化するものを求めていただけなのではないかと僕には思われる。安楽死であれ、アホウドリであれ、あるいは女性「保護」であれ。彼女にはそのエスカレーションのプロセスこそが重要であり、その妥協を許さない歪んだストイシズムだけが彼女を活気づけていたのだ。

ニールもまた、核実験の終末的な光景に魅せられている。次第に異常化して行くコミュニティを冷静に観察しながらも、そこから決して逃げ出そうとしないニールの心理はこの小説の重要なモメントを象徴している。

ある種の異常性によって活性化されるコミュニティという視点からは、この期間の他の作品に確実に連なるが、描写は陰惨で読み通すのは体力が必要だ。
 

 
Cocaine Nights コカイン・ナイト 1996 (新潮社 山田和子・訳)

南スペインのコスタ・デル・ソルに建設されたリゾート地、エストレージャ・デ・マル。現役を引退したイギリス人が余生を過ごすその街のスポーツ・クラブでマネージャを務めていたフランクは、放火殺人の疑いでスペイン警察に逮捕されている。フランクの兄であるチャールズ・プレンティスが、弟の嫌疑を晴らすため、ジブラルタルに降り立つところからこの物語は始まる。

だが、5人を焼き殺した火災の真実を追い求めるチャールズが目にしたものは、罪を自認し対話を拒否するフランクと、エストレージャ・デ・マルを覆う奇妙な一体感だった。やがてチャールズは事件の鍵を握る人物、ボビー・クロフォードに出会う。彼こそは沈滞するコロニーを活気づかせる原動力であり、エストレージャ・デ・マルを一つにまとめ上げている張本人であった。

チャールズは次第にクロフォードの手法を理解し始める。そしてクロフォードに惹かれ、彼の「活動」に巻きこまれ始める。クロフォードがコロニーを活気づかせる手法、それは犯罪だった。彼は死んだように半醒半睡の状態にあった引退者達のコロニーに、盗み、レイプ、売春、放火といった犯罪やドラッグを持ちこみ、それによって住人たちを目覚めさせたのだ。

「残念なことだが、今では、私たちの精神をかき立てるものは犯罪しかない。私たちは犯罪という“別世界”――あらゆることが可能な異世界に魅惑される」とクロフォードは言う。チャールズは半信半疑ながらもクロフォードと行動を共にするうち、その理論に知らず知らず深くコミットしてしまう。そして、フランクが罪を負おうとしている放火殺人は、罪を共有することによってエストレージャ・デ・マルの覚醒をそのまま生かし続けるための儀式だったことを知る。それは罪のシンジケートであり、それによってエストレージャ・デ・マルはもはやクロフォードなしでもその活気を自ら再生産し続けることができるというのだ。

死んだような日常を異化し、生への欲求を目覚めさせるには犯罪や暴力が必要なのだというヴィジョンはこれまでバラードが繰り返し描いてきたことのストレートな延長線上にある。ここでは物語はミステリーの形式を取り、フランクが罪を自認する火災の真相を兄のチャールズが解き明かすという筋立てをなぞって行く。しかしそこで本当に語られているのは、言うまでもないことだが、放火犯がだれかということではなく、「罪のシンジケート」こそがコミュニティを生かしているという単純な事実に他ならない。

そしてそれは、南スペインの架空のリゾート地でだけ起こっていることではない。僕たちの住むこの世界、この国、この街もそのような罪のシンジケートによって固く結束し、それをガソリンにして走り続けているということなのだ。

語り口はオーソドックスで、何も知らない読者がミステリーと間違って手に取っても十分楽しめる作品である。しかし、バラードがこの物語に隠した迷宮のような人間の深層心理への入口を見つけなければ、この作品を本当に楽しんだことにはならないのではないかと僕は思う。
 

 
Super-Cannes スーパー・カンヌ 2000 (新潮社 小山太一・訳)

舞台は南仏、地中海沿岸に新しく建設されたビジネス・パーク、エデン=オランピアだ。主人公のポール・シンクレアは航空関係の編集者でありパイロットでもあるが、飛行機事故を起こし完治しない膝の傷を抱えて療養中の身である。ビジネス・パークの診療所に医者として赴任する若い妻ジェインに付き添うようにしてエデン=オランピアにやって来る。

エデン=オランピアは快適に整備され、セキュリティの行き届いた真新しいビジネス・パークだ。世界中の多国籍企業が穏やかな気候と至便な立地、優遇税制に惹かれて進出し、ビジネス・エリートたちが休みもなくハードワークをこなしている。しかし、ジェインの前任者であったデイヴィッド・グリーンウッドはここで突然錯乱し、ビジネス・パークの高級幹部7人と3人の人質を殺し、自殺したというのだ。

この小説はポールがグリーンウッド事件の真相を探る形で展開する。だが、「殺す」や「コカイン・ナイト」と同様、謎解きそのものはここでも重要ではない。むしろその過程で明らかにされるエデン=オランピアの病理、そしてそれに抵抗しつつもその中に取り込まれて行くポールの心の動きこそがこの作品の核心だ。

ビジネス・パークの分析医ペンローズは言う。「隅々まで正気が支配する社会では、狂気が唯一の自由になるんだ」。「われわれは人間を復活させなくちゃならない――殺戮者の眼を与え、死の夢を与えなくちゃならないんだ」。そこではビジネス・パークの機能を正常に維持し、ビジネス・エリートたちの活力を保つために、周辺の地区での人種差別的な暴行や略奪がプログラムとして意図的、組織的に行われていた。

だが、ジェインを倒錯した街娼に仕立てられ、殺人までもが「プログラム」の一環として行われていることを知ったポールは、最後に自らビジネス・パークの幹部たちを殺すことを決心する。それこそはグリーンウッドがしようとして未完に終わった仕事だったのだ。

清潔で快適な、超近代的ビジネス・パークの運動原理が無軌道な暴力と倒錯したセックスだったという見立て自体は既に「殺す」で看破されていたテーマの延長上にあるものだが、バラードはここでそれをより巧みに、念入りに構築しており、その寒々としたリアリティはより説得力を持って迫ってくる。

もっとも、こうしたバラードの着想が、「交通事故のエロティシズム」や「高層住宅の階級闘争」に比べると、いささか分かりやすくなっている感は否めない。ついに時代がバラードに追いついたのか、あるいはバラードの発想自体が時代のスピードを超えるオリジナリティを持ち得なくなったのか。それから、もうひとつ気になるとすれば――ここまでのレビューを読めば分かる通り――物語の構造が「コカイン・ナイト」と似すぎていること。同じ話を二つ書く必要がどこにあったのか、理解に苦しむ。
 



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