logo JGB長編レビュー 1979-1987


ここでは79年の「夢幻会社」から87年の「奇跡の大河」までの長編のうち、「太陽の帝国」を除く3編を取り上げる。「太陽の帝国」を除くのは、この作品がバラードの自叙伝的な要素の強い作品で、他の長編と明らかに作品の主題が異なるからである。「太陽の帝国」は「女たちのやさしさ」と合わせて別に取り上げることとしたい。

それ以外の3編は、テクノロジカル・ランドスケープ三部作を立て続けに発表した時期からややインターバルを空け、散発的に発表されている。これまでのバラード作品で見慣れた風景を描きながらもその筆致に大きな変化の見られる「夢幻会社」、スラップスティックとも言えるほどドタバタしたB級SFテイストを盛りこんだ「22世紀のコロンブス」、そして「沈んだ世界」と「燃える世界」を融合したようなオブセッションが印象的な「奇跡の大河」と、一定した傾向は見出しがたい。

とはいえ、それぞれの作品の中にはもちろん見るべきものはある。いや、バラードの頭の中には常にひとつの風景が見えているのだろうと思わせるのはむしろこの時期の作品なのかもしれない。それが何であるかは作品を読んでみるほかない訳だが。


The Unlimited Dream Company 夢幻会社 1979 (創元SF文庫 増田まもる・訳)

奇妙な物語である。主人公のブレイクは何をやってもうまく行かない人生の敗残者であり性格破綻者だが、あるとき空を飛ぶ夢に取り憑かれて空港の格納庫からセスナ機を盗み出し、離陸させた揚げ句、ロンドン近郊の街シェパトンにそれを墜落させてしまう。だがその事故から奇跡的な生還を遂げたとき、ブレイクには自由に空を飛ぶ力、病気を治癒する力、街を熱帯のジャングルに変え、どこからか夥しい数の鳥たちを呼び寄せる力を身につけていたのである。

この作品で顕著なのは、タイトルにもあるとおり(原題は「限りない夢の仲間」)、夢と現実の混濁である。実はブレイクは飛行機が墜落したときにそのコックピットに閉じこめられたまま死んでおり、その後の物語はブレイクがその死から奇跡的な復活したことを起点として語られているが、読みようによってはこれらはすべてブレイクの頭の中だけで起こったできごと(つまりは夢)であるようにも思われる。あるいはブレイクは死ぬことによって街の人々の夢の中の世界に入りこむことができるようになったのだとも言えるかもしれない。

現実と夢の世界の隔壁がかくも薄く、便宜的であるということをバラードは繰り返し語りかける。ブレイクはついに街の住人たちを飛行させ、現実の世界から解放する。ここにおいて現実とは決して確固たるものでも明白なものでもなくなり、夢との境界は曖昧になる。夢の世界でこそ我々は真に解放されるのであり、その意味において真の現実はむしろ夢の中に(あるいは狂人の頭の中に)こそあるのだとバラードは力説するのだ。

熱帯の景色や飛行へのオブセッション、捕らわれた街から決して脱出することのできない状況など、これまでのバラード作品で見慣れた道具立てがここでも使われる。そして開拓されるべきフロンティアは我々の内側にあること、そしてそれが外側の世界の変容と深いところで共振していることが改めて(あるいはむしろより明確に)主張される。「おれはこの死せる生き物に深い憐れみをおぼえた。それはおれの魂が解放されたあとに残された物質的存在のすべてであった」。

幾重にも入り組んだ読み方のできる作品であり、宗教小説であると同時にドラッグ・ノベルでもある。真面目にストーリーを追うよりも、めくるめくような極彩色の小説世界とスピード感あふれる展開に身を任せた方が、この小説の重層性が分かるのかもしれない。
 

 
Hello America 22世紀のコロンブス 1981 (集英社 南山宏・訳)

2114年、石油資源が枯渇し、放棄されて無人の大陸となったアメリカに派遣された探検隊に密航者として潜りこんだウェインは、憧れのニューヨークに上陸する。ベーリング海峡に建設されたダムのためにすっかり気候の変わった東海岸は砂漠と化していた。ウェインらの一行は原因不明の放射性爆発の原因を確かめるため、大陸を西へと横断する旅に出発した。

バラードにしては珍しく伝統的なSFの舞台装置と作法に則った長編小説である。西部を目指す主人公のウェインという名前は当然ジョン・ウェインからいただいたものだろうし、彼が熱帯雨林の街に変わり果てたラスベガスで出会う狂った「アメリカ大統領」の名前はチャールズ・マンソン。悪意を持って「SF小説」をコケにしたとしか思えない作品だが、ここにおけるバラードの意図は僕にはよく分からない。

20世紀後半のアメリカに異常な愛着を抱くウェインや、隊員を見捨ててひとりアメリカの内奥へ踏み込んで行くスタイナー船長の人物造形にはいつものバラード節が顔をのぞかせるが、スタイナーは途中で反省し、窮地に陥ったウェインを助けに戻ってくるし、最後はみんなで「太陽飛行機」に乗って核爆弾から逃げ出すというハッピーエンドが用意されている。難解でシリアスで時としてシュールですらあるバラードの他の作品とは明らかに異質である。

ウェイン、マンソン、そして歴代大統領のロボットが巻き起こすドタバタ(ディックのシミュラクラを思い起こさせる)、あるいはJFKがベルリン封鎖の際に演説した「私は一個のベルリン市民だ(Ich bin ein Berliner)」というフレーズの繰り返し。これらはみんな、バラードがアメリカという国に対して抱いているある種の憧憬とか愛憎とかオブセッションを表しているのだろうか。僕はどうもこれがアメリカといういう国への、あるいはSFというジャンルへのバラードの意地悪な意趣返しにしか見えないのである。

たぶん腹を抱えて笑いながら読むのが正しいんじゃないかと思われるバラードとしては異色の長編。
 

 
The Day Of Creation 奇跡の大河 1987 (新潮文庫 浅倉久志・訳)

中央アフリカの奥地に赴任した医師マロリーは、ある時、地中に埋もれた大木の根を掘り起こしたことで地下水脈を噴出させ、サハラ砂漠に巨大な川を出現させた。自らが生み出したその川を殺すため、マロリーはゲリラの少女兵であるヌーンとともに水源を求めて川を遡り始める。

ここでも繰り返される主題は夢と現実の混濁である。アフリカの奥地、砂漠とそこを流れる川、その恵みで少しずつ緑化される流域の景色といった舞台装置は初期の破滅三部作を思い起こさせるし、栄養失調でやせ衰えながらあくまで水源を求めて航行を続けるマロリーの姿はバラードの作品に特有の破滅に魅入られた主人公の系譜に連なるが、ここで最も重要なのは、サハラ砂漠を横切って流れる大河が、果たして本当に存在するものなのか、あるいはマロリーの熱病に浮かされた頭が作り出した幻なのかということに尽きるのだ。

物語の終盤、この川の水源にたどり着いたマロリーは、川が本当に存在することを確信するが、それすらも読者には素直に信じ難い。我々にとってはこの小説自体がそのような両義性を持った存在だからだ。むしろ最後にこれが「夢落ち」だと明かされないことが、この小説の重層性を逆に裏書きしていると言ってもいいだろう。これは本当にサハラ砂漠に出現した川の物語かもしれない。しかし同時に、これはマロリーが自殺の代用として妄想の中で作り出した川を傷つけ、殺そうとする神経症的な物語でもあり得るのであり、その混淆、その重層性がこの小説の本質なのではないかと思う。

加えて、浅倉久志が「解説」の中で引用しているバラード自身の言葉にもあるように、カメラを携えてチャリティのためにやって来るテレビ・プロデューサー、サンガーの存在がこの物語をさらに複雑にしている。サンガーが示すステロタイプなアフリカのイメージを原住民の子であるヌーンが嬉々として受け入れる虚実の逆転もまた、この作品の重層的な構造を支えているからだ。サンガーのカメラを通して見る景色こそが本当の景色であり、現実は真に迫ったテレビ映画を撮影するための書き割りに過ぎないというオブセッションが、この物語を貫くもう一つの視点を提供している。

いささか難解であり、またそこで描かれる物語もかなり陰惨で陰鬱なものなので、読み通すには少々忍耐が必要だが、初期の作品と90年代以降の作品をつなぐ重要な位置を占める小説だと言うことができるだろう。
 



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