logo JGB長編レビュー 1973-1975


ここでは73年の「クラッシュ」から75年の「ハイ・ライズ」までの3編を取り上げる。これらの作品はテクノスケープ三部作などと呼ばれ、テクノロジーと僕たちの営みとの関係をラジカルに追求し、高い評価を得た一連の試みである。テクノロジーを介してもたらされる死やエロチシズムではなく、テクノロジーそのものが直接内包する死やエロチシズムについて、モータライゼーションの始まりである70年代の前半に既に看破し、それをこそ現代文学が描くべき主要な関心として積極的に取り組んだバラードの先見性は、むしろ21世紀の今日にこそ重要な示唆を与えているように思われるのである。


The Crash クラッシュ 1973 (ペヨトル工房 柳下毅一郎・訳)

交通事故によって人が傷を負う瞬間、それは機械と肉体の婚姻である。壊れ、歪み、ひしゃげた機械部品と、柔らかく傷つきやすい肉体、生暖かい血やその他の体液が一つになって織りなすタペストリーが、僕たちに新しい性欲の扉を開くのだ。

交通事故で自動車が壊れる瞬間に立ち会ったことがあるだろうか。高速で突進してきた自動車が、壁に、電柱に、別の自動車に激突する瞬間、決して聞き逃すことのできない金属音やガラスの砕ける音が暴力的に僕たちを振り向かせるだろう。それは甘美な調べだ。僕たちは足を止め、見慣れない格好に変形した機械を眉をひそめながら覗きこむ。それはある種の性的な昂揚に似ている。古典的な暴力とセックスの組合せに、自動車という現代の最も象徴的な機械が新しい可能性を示す。

初期作品で、本当に探索されるべきなのは外的宇宙ではなく内的宇宙であると看破したバラードが、内的宇宙の新しい広がりを見出したのは、もはやSF的な設定や自然の驚異すら必要としない、ごくありふれた生活風景の中だった。生身の身体を抱いた金属製の機械が僕たちに求める交合のことをバラードは指摘している。僕たちの意識が、壊れた機械の尖った先端に、こぼれた油に見出すエロチックな夢をバラードは白日の下に引きずり出してみせるのだ。

物語が進むに連れ、自動車へのオブセッションは亢進して行く。「コンクリートの斜線を滑空していく美しい自動車の記憶が、以前は鬱陶しいだけだった渋滞と車の列を、限りなく光り輝く行列、目に見えない空への上昇ランプを辛抱強く待ち受ける行列に変えた」。自らの名を付けた語り手の意識はもはや自在に渋滞をすら作り出せるかのようだ。内的意識と外的風景の混濁というバラードの最も根源的なテーマがここにも立ち現れている。

これはイモラルなポルノ小説であり、現代の機械文明に対する危険思想である。しかし、およそ文学の世界にあってモラリスティックであること、安全であることに何の価値があるだろう。そのようなすべての「安心」に不穏な疑問を呈することこそが文学の存在価値だとしたら、本作は間違いなく最も重要な文学の達成の一つだ。
 

 
Concrete Island コンクリート・アイランド 1974 (太田出版 大和田始、國領昭彦・訳)

主人公のロバート・メイトランドはある日、自動車で走行中にハンドルを誤って高速道路を飛び出してしまう。ケガは大したことがなかったが、彼が投げ出された場所は、高速道路に囲まれたインターチェンジの中の三角地帯であった。築堤と金網に閉ざされたその小さな世界は、最初の脱出への試みで足を傷めたメイトランドには決して抜け出すことのできない都会の中の孤島だった。

絶望的な脱出を試みるうち、メイトランドはその孤島にだれか自分以外の者が潜んでいることに気づく。情緒不安定な若い女、精神薄弱の初老のサーカス芸人とメイトランドの奇妙な駆け引きが始まる。

この物語の圧巻は、メイトランドが酔ったサーカス芸人に放尿して彼を侮辱し、彼らを支配するのに成功するシーンだろう。そのようにしてメイトランドはこの「島」の支配権を手に入れようとする。そして、彼の支配が芸人に、女に、島全体に及ぶにしたがって、脱出への具体的な欲求は次第に後退して行く。

この構造、災厄の裏側に潜む陶酔への傾きは初期の三部作と通底している。しかし、そこにあるのはもはや荒唐無稽な自然災害ではない。それはいつでも起こり得る交通事故という日常的なアクシデントの副産物だ。都会の中の盲点だ。オフィス街の植え込みで死んだまま何日も気づかれない浮浪者のように、我々の都市生活の中でそれぞれの無関心がぽっかりと口を開く異空間で繰り広げられる退行への甘美な誘惑だ。

読み進むに連れ、読者はメイトランドがこの島を脱出できないのは、彼が決して本心から脱出を願ってはいないからだということに気づくだろう。脱出が成功すれば彼はもはや脱出することができなくなる。この倒錯したパラドックスこそがこの物語の核心だ。

「ある意味で彼が自分に課した任務は無意味なものとなっていた。もはや島をぬけだしたいという切実な欲求はもっておらず、そのことだけでも、彼が島に対する支配を確立したことの証しであった」

芸人が死に、女が島を出て行ってメイトランドは一人になる。そして僕はメイトランドがこの島を出て行くことはないと悟る。そう、それはテクノロジーに囲まれた騒々しい現代社会に進んで捕らわれている僕たちの姿そのままなのだ。
 

 
High-Rise ハイ・ライズ 1975 (ハヤカワ文庫 村上博基・訳)

ロンドン近郊の倉庫街を再開発して新しく建設された高層マンションでは、住戸の階層による新しい階級が発生し始めていた。上層階の住人は下層階の住人を蔑み、下層階の住人は上層階の住人に反感と憎悪を抱く。その摩擦は次第に露わなものとなって行き、ついに暴力による衝突へと発展して行く。

それなりの所得があり、現代的な専門職に就いている知的で理性的な「個」の担い手であるはずの人たちが、少しずつ退化し始め、原始的な部族対立にも似た襲撃と殺戮の応酬を繰り返すようになって行くさまを、バラードは中層階に住むラングという医大の教授、下層階に住むワイルダーというテレビカメラマン、そして最上層に住みこのマンションを設計したロイヤルという登場人物を通して仮借なく描ききってみせる。

マンションは荒廃し、至るところゴミだらけになり、糞尿はそこいらじゅうに散乱する。しかし住人たちはむしろその不衛生で前近代的な生活の中に自閉するようになって行く。襲撃には銃器は使われず、外部からの干渉を受けないように扉を閉ざしたマンションの奥深くで、陰惨な殺し合いが繰り返される。

しかし、そうしたデタラメな暴力とセックスによってマンションでの生活は活気づいて行く。それは後に「コカイン・ナイト」や「スーパー・カンヌ」で描かれた世界とも似ている。また、物語の終盤、もはや原始的な部族抗争すら崩壊し、ひとりひとりが孤立して荒れ果てたマンションの部屋に閉じこもるようになったとき、最も秩序だち意気軒昂なのが女性ばかりの集団であることは「楽園への疾走」を思い起こさせもする。

現代社会での生活において巧みに覆い隠されている暴力やセックスへのやみくもな衝動を、高層住宅での階層間抗争という一軒突拍子もない舞台装置を使って解放する手法は、「クラッシュ」や「コンクリート・アイランド」で提示した方法論と通底している。ここで顕著なのは、その道具立ては荒唐無稽なのに、そこに笑い飛ばすことのできない現実感があることだ。高層住宅という究極の孤絶した世界で、あらゆる世間での些事から解放された現代の自由な魂が向かうところ、求めるものは、結局のところ近代的なモラルからの解放、自由な暴力とセックス、自分の肉体の欲求への直接的な回帰であった。

ロイヤルが高層住宅を登高(ハイ・ライズ)したワイルダーに殺され、そのワイルダーが団結した女性のグループに殺される一方で、ラングが二人の女性を囲いながら静かに生き延びることの示唆される結末は、バラードの階級観を見るようで興味深い。バラードの傑作の一つだといえよう。
 



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