J.G.バラード 小説総覧 僕はイギリス文学の熱心な読者ではないので、バラードがいったいイギリスでどんな位置づけの作家なのかよく知らないし、また興味もない。僕にとって重要なのはJ.G.バラードという作家その人、彼の書く作品そのものなのだ。ニューウェーブSFの旗手だとかそんなこともどうでもいい。彼の小説が僕の中の何かと確実に呼応する、その瞬間のためにこそ僕はバラードの作品を読む。 とはいえバラードの作品は概して読みにくい。登場人物はおしなべて性格が破綻しており、そこで描かれる風景は終末的で陰鬱だ。僕たちが見慣れた世界の運動原理はそこでは何の説明もないまま放棄され、すべては救いのないカオスの中へと回帰して行く。読んでいてうきうきするような楽しい作品はひとつとしてない。むしろそれは僕たちを憂鬱にし、不安にし、混乱させる。だからバラードの小説を手に取るためにはある種の覚悟が必要であり、彼がたたきつけてくるエネルギーを受け止めるだけの心構えがなくてはならない。僕は「奇跡の大河」を3回読んで挫折し、4回目でようやく最後まで読み通すことができたくらいだ。 それはなぜか。それはバラードの小説が、僕たちの内にありながら僕たちがふだん決してそこにあることを認めようとしない暗い欲望とか歪んだ原風景を、傷を抉るように力ずくで引きずり出すからだ。僕たちが気づかない僕たち自身の狂気、あるいは気づいていながらまだ言語化することができずにいる内なる暗闇の存在を、バラードはこれでもかというくらいはっきりと僕たちに突きつけてみせるのだ。僕たちは自分が見て見ぬふりをしてきた自分の中の説明のつかない優越感や劣等感と正面から向かい合うことを強いられる。 それは苦痛であると同時に、しかし、甘美な体験だ。例えば反対車線の交通事故を見ながら通るクルマのために渋滞する高速道路。例えばマンションの下の階の住人に対するひそかな軽蔑。例えば世界貿易センターに飛行機が突入する映像を見て興奮する自分自身に覚える当惑。それは背徳でも何でもなく、ただ、僕たちの意識のどこか深いところには、そうしたものに反応するコードのようなものが隠されているというだけのことなのだ。バラードの小説はそうしたコードの存在を暴き立てて行く。それが僕を誘惑する。 僕はバラードを読むことをだれにでも勧める訳ではない。それはだれにでも勧めることのできるような小説ではないのだ。バラードを読むということは、何か、あまり大きな声で口にすることのできない異常な性的嗜好を持っているのと同じような領域に属することであり、秘するべき類の話である。だからここにあるのは僕のひそかなカミングアウトなのかもしれない。
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