彼女の思い出/逆さまの森
「このサンドイッチ、マヨネーズ忘れてる/ハプワース16、1924年」に続き刊行された、金原瑞人の翻訳によるサリンジャーの短編集。サリンジャーが公式に刊行を許した4冊の書籍に収録されなかった中短編22編のうち、「このサンドイッチ…」で取り上げなかった9編を収めている。 「このサンドイッチ…」に比べると収録作の出来にバラつきがある感は否めないが、「ヴァリオニ兄弟」や「ブルー・メロディ」、中編と呼べる長さの「逆さまの森」などは力のある作品で、新訳で世に出ることには意義があると言っていい。 「彼女の思い出」や「ブルー・メロディ」は発表年代から見て「ナイン・ストーリーズ」に収められていてもおかしくない作品であり、なぜそこから外されたのか考えてみるのも面白い。まあ、ここまで取り上げたのなら、残りの4遍も訳してしまえばよかったのにとは思う。 ■ A Girl I Knew (1948)
若い頃ウィーンに遊学し、同じアパートに住むユダヤ人の娘リアと淡い情を交わした男が、アメリカ軍の兵士として再び当地に赴き、彼女がナチスによって殺されたことを知るという物語。サリンジャー自身がユダヤ系であることを考え合わせれば、複雑な感情がその背後にあってしかるべきだろうが、ここではそのような感情的な抑揚は見られず、ただ、淡々とリアとのぎこちない会話と、後日アパートを訪れた際のエピソードが語られる。 ■ The Vorioni Brothers (1943)
天才的な作曲家である兄と、同様に天才的な物書きの弟の物語。弟は大学で教鞭を執りつつ小説を書いているが、兄の作品が認められたとき作詞家として兄とともにデビューする。やがて弟は自分の作品を書くため兄から離れようとするが兄が彼の才能を手放そうとしなかったために果たせず、あるとき兄と間違われ殺されてしまう。真面目な弟に対して兄は放蕩であり、博打の借りを返していないためにヤクザ者から狙われていたのだった。 ■ Soft Boiled Sergeant (1944)
語り手のフィリーが軍隊で出会った「やさしい軍曹」のことを回顧するという物語。軍曹はバークさんという名で、新兵として入隊しベッドに腰かけて心細さに涙していた16歳のフィリーにバークさんが声をかけたエピソードだ。バークさんは若きフィリーに大事な勲章を見せてくれる。見せてくれるだけではない、それをつけてみろという。そしてそれをしばらく貸してくれる。そのようにしてフィリーは何とか軍隊への入口を通過できた。 ■ The Heart Of A Broken Story (1941)
ホーゲンシュラークなる31歳の印刷工がシャーリーという魅力的なヒロインと巡り会うラブ・ロマンスをいかにしたら構築できるかという作家のストーリー・テリングの内幕を皮肉っぽく書きつけた「反小説」。巷にあふれるラブ・ロマンスのあまりにご都合主義的で不自然な描写を揶揄しながら、さまざまな出会いのパターンを示しては、あれもダメ、これもダメ、だから私はラブ・ロマンスが書けなかった、と結ぶある意味楽屋落ちの作品。 ■ The Hang Of It (1941)
覚えが悪くいつもへまばかりしている新兵の物語。語り手の息子が徴兵されたことから、語り手はかつての間抜けな新兵のことを語り始める。その新兵ペティットは軍曹の指示をことごとくやり損なう。軍曹に罵倒されたペティットは繰り返す。「じき要領をおぼえます」。そしてこう付け加える。「じきにのみこみます。嘘じゃありませんよ。本当にぼく軍隊がだいすきなんです。いつか大佐かなにかになってみせます。嘘じゃありません」。 ■ Both Parties Concerned (1944)
ビリーとルーシーという若い夫婦の痴話喧嘩を題材とした物語で、ビリーの視点からくだけた調子で語られる形式になっている。二人はどちらも未熟な若者で、考えが一面的である上、互いの心情に対する省察も欠けているために(まあ、若いときには当たり前なのだが)すぐにすれ違ってしまう。ビリーとルーシーが二人でクラブに出かけるが些細な行き違いから諍いになり、ルーシーのご機嫌を損ねてしまう下りの描写なんかは見事だ。 ■ Personal Notes On An Infantryman (1942)
『The Hang Of It』と同様、落ちのついた掌編であり、やはり世相を映じてか軍隊でのエピソードとなっている。陸軍の歩兵部隊で事務を務めている語り手の元に入隊希望者がやってくる。名はロウラー。彼は40代半ばで軍需工場の技師長をしているのだという。新兵には明らかに年かさすぎる。「私」は入隊を思いとどまるようそれとなくロウラーに促すが彼は聞かない。ロウラーの妻からも電話がかかってくるが、結局ロウラーは入隊する。 ■ Blue Melody (1948)
『A Girl I Knew』と同じく、発表順からいえば「ナイン・ストーリーズ」に収められたいくつかの短編より後に位置する作品だが、サリンジャーが敢えて選ばなかったもの。チャールズという黒人が経営するパブに入り浸る白人少年が、チャールズとその妹リーダらとともにピクニックに出かける。だが、そこでリーダは急に盲腸炎で苦しみ始める。彼らはリーダを病院に連れて行くが、黒人だということで冷たく追い返されるという物語。 ■ The Inverted Forest (1947)
中編と呼び得る分量を備えた作品であり、サリンジャー本人が顧みない初期作品の中で間違いなく最も重要なものである。主人公のコリーンは裕福な家庭に生まれ育ち、今はニュース雑誌の記者である。彼女はある時、幼い頃に思いを寄せながら離ればなれになり消息も知らなかった少年レイモンドが、今や将来を嘱望される詩人になっていることを知り、彼に連絡を試みる。彼らは再び巡り会い、やがて結婚、二人で暮らし始めることになる。 2009-2023 Silverboy & Co. e-Mail address : silverboy@silverboy.com |