logo このサンドイッチ、マヨネーズ忘れてる/ハプワース16、1924年


このサンドイッチ、マヨネーズ忘れてる
ハプワース16、1924年

金原瑞人 訳
2018 新潮社


■ マディソン・アヴェニューのはずれでのささいな抵抗
■ ぼくはちょっとおかしい
■ 最後の休暇の最後の日
■ フランスにて
■ このサンドイッチ、マヨネーズ忘れてる
■ 他人
■ 若者たち
■ ロイス・タゲットのロングデビュー
■ ハプワース16、1924年
   


本邦でのみ刊行されている短編集であり、ここに収められた9編の作品はいずれも本国(アメリカ)では雑誌に掲載されたきり書籍化されていないもの。我が国ではこの短編集以前にもこうしたサリンジャーの未書籍化作品が翻訳されて出版されていた経緯がある。

自作の出版を厳しくコントロールしていたサリンジャーが、本国において書籍化を許していない作品がこうして遠く極東で他国語に翻訳されて出版されていることをどう認識していたのかは不明であり、おそらくは快く思っていなかったのではないかとも想像される。しかし、我々読者としてはそうしたメンドくさい事情は別として、彼の最後の作品となった「Hapworth 16, 1924」を含む重要な作品を比較的容易に手に取ることができるのは率直にありがたい。

公刊された4冊の書籍以外にサリンジャーが雑誌に発表した中短編は22編あり、この短編集にはそのうち9編が収録されている。最も重要なのは1965年に雑誌「ザ・ニューヨーカー」に発表されたきり本国では書籍化されることのなかった「Hapworth 16, 1924」である。読めばこの作品が確かにいささか扱いに困るものであることも理解されると思うが(それにしても本くらい出せばよかったのに)、グラス家モノの最後の作品として読んでおく価値はあるだろう。

なお、この作品に関しては原文では、シーモアが両親に対し「レス」「ベシー」とファースト・ネームで呼びかけているのであるが、訳者の金原は敢えてこれを「父さん」「母さん」と訳出している。「なるべく読みやすい形で」という意図は理解するとしても、「気になってしょうがなかったので」という理由で作者の意図を曲げたことには大きな疑問がある。

もともと両親にファースト・ネームで呼びかけることは「英語でもほとんどないだろう」ということだが、そうであればなおさら、それにも関わらずシーモアに両親をファースト・ネームで呼ばせたサリンジャーの意図はその「違和感」にこそあったのだろうと思われるのであり、それを「父さん」「母さん」と平板に訳してしまったことでこの作品の「ヤバさ」は大きく損なわれてしまったのではないか。

この作品以外の収録8編は大きくふたつに分けられる。ひとつは「Catcher in the Rye」に連なる作品群で、「マディソン・アヴェニューの…」から「他人」までの6編である。登場人物は互いに関連しており、「Catcher...」の主人公となるホールデン・コールフィールド、その兄であるヴィンセント・コールフィールド、そしてヴィンセントの戦友であるベーブ・グラッドウォラー。第二次世界大戦に欧州で従軍し、前線で苛烈な戦闘をくぐり抜けるなかで深く精神を病み、その結果として無垢なるものに対する痛切な希求を抱えこむこととなるサリンジャーの心の動きの一端が窺われる一連の作品である。読みごたえという意味では「ハプワース…」よりも胸に迫る。

いまひとつは「若者たち」「ロイス・タゲットのロングデビュー」という2編の初期短編であり、いずれも従軍前に書かれたものである。ここにはサリンジャーの作家としての資質がストレートに表れており、もし彼がこのまま洒落た都会的な短編を書き続けていたらと思わせるが、もしそうなら今日我々が彼の作品を手にすることはなく、これらの短編も読まれていなかったかもしれない。



Slight Rebellion Off Madison (1946)

『I'm Crazy』と同様、ホールデン・コールフィールドを主人公にした短編で『ライ麦畑』の原型をなすものだが、こちらは三人称で語られている。物語は学校の寄宿舎からニューヨークに帰ったホールデンがサリーを劇場に連れ出した揚げ句、言い争いで気まずい雰囲気になり、いったん彼女を家に帰したあと、夜中遅くに彼女に電話をかけてくどくどと繰り言を重ねるというもの。形を変え『ライ麦畑』に収められた。
ここでは「仕事をみつけて小川のほとりかなんかに住もうよ」というホールデンの重要な「将来観」が語られる。もちろんそれはナイーブすぎる夢想に過ぎないが、大人の世界に入って行くことへの恐怖と嫌悪は『I'm Crazy』にも増して一層はっきりと表れている。大学を出て結婚してからならどこにでも行けるというサリーに「そうなったら、ぜんぜん意味が違ってきちゃうよ」と答えるホールデン。この会話ですべてが語られている。


I'm Crazy (1945)

『Last Day Of The Last Furlough』以降の一連の作品に登場したヴィンセント・コールフィールドの弟、ホールデンが一人称で語る作品である。いうまでもなくホールデンは『ライ麦畑』の主人公であり、この作品は『ライ麦畑』に収められたエピソードの原型である。放校されたホールデンはスペンサー先生に別れを告げたあと、親の目を盗んで家に戻り妹に会う。そして父が命じる「事務所」の仕事に就かされることを予感する。
ここでのホールデンは『ライ麦畑』ほど造形もはっきりしておらず、物語もまだ内在的な力でドライブできるほど強くはない。「ほかの人はみな正しくて、ぼくだけがまちがっているのだということはわかっていた」。しかし、どう見てもインチキにしか見えない大人たちの世界に取りこまれることへの恐怖、強烈なイノセントへの希求、その象徴としての幼い妹といった『ライ麦畑』の基本的な世界観はここに出揃っている。力のある習作だ。


Last Day Of The Last Furlough (1944)

ホールデン・コールフィールドの名が初めて登場する作品であるが、それ以上にサリンジャー作品の重要なモメントであるイノセントへのはっきりとした言及が重要な物語。戦時下の暗い世相を背景に、賜暇を終えて部隊に戻ろうとする若い兵士が自宅で過ごす最後の夜のことを描いている。主人公のベーブが戦争について父親に意見をする下りがあり、それも重要なステートメントだが、僕の見るところこの作品のキモは別のところにある。
それは間もなく部隊に戻らねばならない主人公が年若い妹を学校まで迎えに行くエピソードだ。幼い妹、女の子のイメージはサリンジャー作品にあって重要な意味を持つ。彼女らは一方でイノセンスを代表するとともに、それがいずれ成長とともに試練に直面することを象徴してもいる。そうした束の間の無垢な輝きを彼女らに仮託して描かずにいられないサリンジャーの、純粋なるものへの憧れ、傾きが素直に表れた、切なくも美しい作品。


A Boy In France (1945)

『Last Day Of The Last Furlough』の主人公であったベーブがいよいよ実際に戦地に赴き、戦闘の合間、塹壕の中で眠る一夜の情景を切り取った短い作品である。主人公がベーブであることは直接には示されないが、登場人物や周辺事情、性格描写などからそう考えて差し支えないだろう。彼はフランスで戦闘に従事しており、今、適当な塹壕を探して一夜の眠りにつこうとしている。そしてくしゃくしゃになった母からの手紙を読み返す。
ここにはおそらくサリンジャー自身の軍経験が直接反映されていることだろう。彼もまた第二次世界大戦末期のヨーロッパ大陸で、アメリカ軍の一員として熾烈な対独戦を戦った経験を持つからだ。そしてここでの、決して主人公である少年兵の心情を語らないリアルな描写が、逆にサリンジャーが戦争から受けた衝撃をはっきり示しているように僕には思える。極限状態におけるイノセンスの在処を淡々と描ききった一級の戦争小説である。


This Sandwich Has No Mayonnaise (1945)

『Last Day Of The Last Furlough』に登場したヴィンセント・コールフィールドの軍隊生活での一幕を描いた作品。ヴィンセントはのちに『ライ麦畑』の主人公として登場するホールデン・コールフィールドの兄であり、ここではホールデンは行方不明になっている。ヴィンセントはそのことを気にかけながらも、軍生活における些事に不可避的に巻き込まれ消耗を余儀なくされている。もちろん、軍隊とは、戦争とはそういうものなのだ。
ヴィンセントは部下たちを慰問ダンス・パーティに連れて行く途中である。しかし手違いで予定より多くの兵が集まってしまった。パートナーの数が決まっているので4人は連れて行けない。ここでは軍隊生活がどのような種類の消耗を強いるのか、そしてそれがいかに個人というものを圧迫するのかが鮮やかに描かれている。行方不明の弟に「冗談はやめてくれ」とヴィンセントが呼びかけるラストは、確実にある種の絶望を喚起する。


The Stranger (1945)

これも『Last Day Of The Last Furlough』に連なる作品。ここでは視点は再びベーブ・グラドウォーラーに戻る。復員した彼は、ヴィンセント・コールフィールドが戦死した時の状況を伝えるために彼の元の恋人を訪ねる。そしてヴィンセントが臼砲に当たって死んだことを話し、ヴィンセントが封筒に書きつけた詩を彼女に渡す。訪問は気まずく、物語は陰鬱だ。ベーブの訪問が正しいことだったのかは、彼にも、読者にも分からない。
この物語で注目するべきなのはベーブが訪問に妹のマティを同伴していることだ。いうまでもなくマティの存在は暗い戦争の前後を通してそこに保存されているべきある種の希望とかイノセンスを象徴している。この、暗く、救いのない物語は、戦争というものがいかにサリンジャーを痛めつけたかということを示すとともに、しかしサリンジャーが、だからこそそこに救いのしるしを書き込まずにはいられなかったことをも示しているのだ。


The Young Folks (1940)

若者たちの集まったパーティでの男女、エドナとジェイムソンの会話を描く。「大きな鼻と、しまりのない口と、細い肩」のジェイムソンはエドナと話しながらも他のブロンドの女の子が気になって気のない返事を繰り返し、揚句に課題が残っているとか何とか適当なことを言ってエドナの傍を離れブロンドを囲む男たちの末席に加わる。爪を噛んだり、親指のささくれをむしったり、ジェイムソンは徹底して鈍感な男として描かれている。
よく読んでみればエドナだって別に大したことをジェイムソンに語りかけている訳でもないのだが、ジェイムソンがあまりにさえない凡庸な男であるために、読者はエドナのやりきれなさを共有することになる。主題としてはどうということのない、ひとつの情景描写のような作品だが、その描写が抑制的でありながら的確であるおかげで、参加したこともない1930年代アメリカの学生パーティのざわめきまでがはっきりと聞こえてくるようだ。


The Long Debut Of Lois Taggett (1942)

ルイス・タゲットという世間知らずのお嬢様が学校を卒業し、見栄えのいい男との最初の結婚に失敗した後、パッとしない男と再婚し、曲折を経て人間的な成長を果たすという物語。ルイスがその浅はかさ故に財産目当てのハンサムだが愚かな男と結婚する下り、またその男がふとしたことから急にルイスを愛おしく感じ始め二人の間に束の間の蜜月が訪れる下り、あるいはその蜜月が脆くも終わりを告げるエピソード、どれもが鮮烈だ。
ルイスはその後、実直だが背が低く太った男と再婚するが、彼を本当には愛していない。だが、彼女は子供を6カ月で亡くして変わる。彼女は相変わらず彼を愛していないが、彼のありようを許し、受け入れたことをサリンジャーは示唆する。それは彼女がようやく世界というものを知り、許し、受け入れたことを意味するのだろう。ほとんどエピソードだけでドライブしながら、生というもののせつない本質を鮮やかに描き出した作品。


Hapworth 16, 1924 (1965)

結果としてサリンジャーの生前に発表された最後の作品となった。前作「シーモア―序章―」から6年のインターバルの後に発表されているが、前作で既に顕著だったストレートな「物語」からの逸脱は一層強まり、ここではシーモアが7歳の時に弟バディと一緒に参加したサマー・キャンプから家族に宛てた手紙の形式を取っている。冒頭で語り手であるバディがその事情を簡単に明かす他は最後まで幼いシーモアの手紙が延々と続いて行く。

もちろん幼いとはいえグラス家の精神的支柱である早熟の天才少年シーモアのことであるから、その筆致はまったく7歳児の拙い作文である訳もなく、キャンプで彼を取り巻く周囲の人たちに対する鋭く峻厳でありながら寛容な観察や、人間存在についての形而上的な考察や、家族に対する愛情、そして送って欲しい書籍の一覧などが、大人びた、いや、並の大人よりもよほどしっかりとした文章で紆余曲折を経ながら書き記されるのである。

興味深いのはシーモアが「この古い雑誌にはぼくの親友、はっきり言えば前世で文通していた仲なんだ、ウィリアム・ローワン・ハミルトン卿の記事が出ているんだ」とはっきり書いていることだ。ここに至ってシーモアの天才は単純に認識的なものではなく超越的なモメントを含んだものであるというサリンジャーの見立てが明かされる。それは即ち輪廻転生がグラス・サーガにおいて所与のものであり、中心的な主題であるということだ。

それは「死ぬのってただ単に体から出るだけなのに。だってみんな、いままでに何千回もやってるんですよ」という「テディ」での死生観と相まって、シーモアの自殺が単なる不適応ではなく何らかの運命的なものであったことを示唆する。しかしこの魅力的な家族史が最終的に東洋かぶれの輪廻転生譚に貶められたことには僕は強い幻滅を感ずる。この時点でサリンジャーは後退不能のデタッチメントに絡め取られていたのではないだろうか。



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