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大工よ、屋根の梁を高く上げよ
シーモア―序章―

野崎孝・井上謙治 訳
1970 新潮社(新潮文庫)


■ 大工よ、屋根の梁を高く上げよ(野崎)
■ シーモア―序章―(井上)
   


1955年発表の「Raise High the Roof Beam, Carpenters」と1959年発表の「Seymour: An Introduction」の中編2編をひとつに合わせたもの。本国(アメリカ)では1963年に出版されたもので、公刊されたサリンジャーの最後の書籍となった。サリンジャーはこのあと発表された最後の作品となる「Hapworth 16, 1924」を1965年に「The New Yourker」に掲載しているが本国では書籍化されていない。

本邦では新潮文庫から訳書が出版されており、「Raise...」の方は野崎孝、「Seymour...」は井上謙治が翻訳を担当。手に取るとすればこの新潮文庫版になるだろう。読みにくいと感じる人も少なくないと思うがそれはおそらく作品のせいであり翻訳のせいではない。


Raise High The Roof Beam, Carpenters (1955)

グラス・サーガの中心人物であるシーモアの結婚式当日のエピソードを次兄のバディが語る形式の物語。兵役に就いているバディはシーモアの結婚式に参加するために休暇をもらいニューヨークを訪れる。式は盛大なもので、ほとんどが花嫁側と思われる大勢の人で賑わっている。しかしシーモアはそこに現れない。式は流会になり、バディは居合わせた人たちと送迎の自動車に押し込められ、気まずい時間を過ごすことになるといった粗筋だ。

だが、結婚式がお流れになったその後、シーモアは花嫁であるミュリエルのもとを訪れ、彼女を連れてそのまま新婚旅行に旅立ってしまう。「ぼくはあんまり幸福でとても結婚なんかできそうにない。もっと気持が鎮まるまで結婚式をのばしてくれなければだめだ。さもなきゃ式に出られそうもない」とシーモアはミュリエルに言う。それがシーモアが結婚式をすっぽかした理由なのだ。そしてそれがこの物語の核心のほぼすべてでもある。

作中でシーモアの日記が明かされるが、その中でシーモアはほとんど幸福妄想とも言えるほどの多幸感の中にあり、それはミュリエルやその母親の言動から発している。彼らの言動はまったくの俗事であり、哲人の領域に達しているシーモアの思考とは明らかな断絶がある。しかし、シーモアはそのような断絶にこそある種の救い、赦しを見出しているように思われる。俗事が俗事としてそこにあることをシーモアは祝福せずにいられないのだ。

これは「ゾーイー」で「太っちょのオバサマ」こそがキリストの本質だと看破した境地に近い。あるいは「テディ」の「そのとき突然僕は、妹は神でありミルクは神なんだとわかったんです」という下りとも通底する。それは、シーモアにとってミュリエルがどのような存在かを表しているのだし、そのまま「バナナフィッシュ」につながって行く。これは我々がどのように世界と向かい合い、どのようにそれを愛するかについての物語である。

Seymour: An Introduction (1959)

グラス兄弟の次兄バディが亡き兄シーモアのことを延々と回想するスタイルの作品であり、物語と呼べるようなストーリー性はない。ただ、バディの果てしなく饒舌で自己言及的なおしゃべりが続いて行く。既に「大工よ」や「ゾーイー」においてこの文体は現れており、ただそれらの作品ではまだかろうじて「出来事」が描かれていることによって、物語としての体裁が保たれていたのだが、ここではそれが放棄され文体だけが残されている。

こうした典型的な「小説」からの逸脱は次作であり最後の作品となった「ハプワース」でいっそう顕著になり、この時期のサリンジャーが分かりやすい「物語」に興味を失ってしまったことを示唆しているようだ。もしかしたら彼が作品を発表しなくなった理由もその辺にあるのかもしれない。彼には読者すら必要なくなったのではないか。作品が作品としてそこにあれば、読まれるかどうかはもはや本質的な問題ではないとでも言いたげだ。

この作品で見逃せないのは、語り手のバディとサリンジャーの境界が限りなく曖昧になっているということだ。「数年前、わたしは大西洋航路の船に乗っている『天才的』少年について、(略)完全な失敗作である短編小説を発表した」とバディは語るが、これはサリンジャーが実際に1953年に発表した「テディ」のことに他ならない。そしてバディはそこで描かれた少年とシーモアの幼年時代に何らかの相似があることを示唆しているのである。

テディはシーモアの「あり得たもう一つの生」だ。死期を予感しながら粛々とそれを受け入れた少年。それはグラス・サーガの中核をなすエピソードであるシーモアの自殺についての重要な示唆である。サリンジャー自身もなぜシーモアが死ななければならなかったかを懸命に見定めようとしている。本作が示すのは、その答えがどんどん生の本質に近づいてしまい、物語というスタイルでは語り得なくなっているということなのかもしれない。



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