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ナイン・ストーリーズ ナイン・ストーリーズ
野崎孝 訳
1974 新潮社(新潮文庫)


■ バナナフィッシュにうってつけの日
■ コネティカットのひょこひょこおじさん
■ 対エスキモー戦争の前夜
■ 笑い男
■ 小舟のほとりで
■ エズミに捧ぐ――愛と汚辱のうちに
■ 愛らしき口もと目は緑
■ ド・ドーミエ=スミスの青の時代
■ テディ
 
ナイン・ストーリーズ
柴田元幸 訳
2009 ヴィレッジブックス


■ バナナフィッシュ日和
■ コネチカットのアンクル・ウィギリー
■ エスキモーとの戦争前夜
■ 笑い男
■ ディンギーで
■ エズメに――愛と悲惨をこめて
■ 可憐なる口もと 緑なる君が瞳
■ ド・ドーミエ=スミスの青の時代
■ テディ


本国(アメリカ)では1953年に出版されたサリンジャー自選による唯一の短編集。サリンジャーはここに収められたものの他にも20編ほどの短編を書いたが、それらの出版を許さなかった。収録された9編は1948年から1953年にかけて書かれたもので、サリンジャーの作品のなかでは遅い時期に発表されたものであるが、この期間に書かれた短編のなかにもここに収められなかったものはある。

本邦ではいくつかの翻訳が出版されている。最もポピュラーなものは野崎孝による新潮文庫版だと思うが1974年訳といかんせん古い感は否めない(それでも読みにくくはない)。2009年には柴田元幸による新訳が出版されている。ここでは柴田訳をもとにレビューした。


A Perfect Day for Bananafish (1948)

サリンジャーの作品の中で最も重要なもののひとつ。この後、グラス家の兄弟たちの物語――グラス・サーガ――として連作的に語られるエピソードの最初のものであり、かつ決定的なもの。ここではグラス家の兄弟たちの長兄であり彼らの精神的支柱であるシーモアの自死が語られる。しかしながら、なぜシーモアが自殺せねばならなかったかはここでは明らかにされない。それどころかここで描かれるシーモアの人間像は恐ろしく不十分だ。
この作品でシーモアの自殺を最初に描いてしまったために、結果的にその後に書かれたサーガはすべてこの事件に適切な説明を与えるための試みになってしまった。この作品だけを読めば、戦争での苛烈な体験で神経を病んだシーモアが、復員しても社会生活に馴染めず、自ら命を絶つ物語ということになるだろう。もちろんそれは一面的な見方に過ぎないが、それを知るためには取り敢えずグラス・サーガを先へと読み進めなければならない。
いったんバナナのある穴に入ったら豚みたいに食べまくり、揚げ句に穴から出られなくなってバナナ熱で死んでしまうバナナフィッシュの挿話。これはシーモア自身のことなのか、あるいはシーモアが看破してしまった世界の在り方のことなのか。幼いシビルは「もっと鏡を見て」と繰り返す。鏡の中に世界と自分との重なりを看破したシーモアは死ぬしかなかったのか。彼がそこに見たのは果たして絶望だったのか、それとも赦しだったのか。
グラス・サーガを一通り読んでから再びここに帰ってくれば、僕たちは世界がぐるりと一回転して新しい意味を獲得したことを知るだろう。そして彼がなぜ死ななければならなかったのかも、それぞれの読者の中で覚束なげに像を結ぶかもしれない。ただひとつここで言えることは、シーモアはこの世俗的な世界と聖性とが等価であることを知っていたということ。だからこそ彼はミュリエルを愛し、世界を愛した。ここではまずそれを知ろう。


Uncle Wiggily in Connecticut (1948)

これもグラス・サーガのひとつに数えられる作品。もっともここにグラス家の人間は直接は登場しない。出てくるのはメアリ・ジェーンとエロイーズという二人の女性、そしてエロイーズの娘であるラモーナ。メアリ・ジェーンが大学時代のルームメイトであるエロイーズの家を訪ねるところから話は始まる。彼女らは酔っ払いながら思い出話に花を咲かせる。そして、かつてエロイーズの恋人であったウォルトの死の珍妙な経緯が語られる。
だがここではウォルトがグラス家の兄弟の一員であることは明らかにされない。それよりはむしろ、恋人であったウォルトを馬鹿げた事情で失い、今はいかにもデリカシーに欠ける人物として描かれる夫ルーや風変わりな娘ラモーナと暮らすエロイーズの、怒りや寂しさや諦めや後悔がないまぜになったやり場のない感情がこの作品の中心になっている。幼い心の中に致命的な歪みを抱えているラモーナの奇矯な言動がそれを際立たせて行く。
なぜ世界は自分の手から最良のものを奪い、そこに残るのはいつもみすぼらしく片輪なものばかりなのか。それはだれもが際限なく繰り返す問いである。そしてサリンジャーはここでその問いを繰り返す。なぜ大切な人がかくも馬鹿げた死に方をしなければならないのか。そこにもちろん答えはない。答えはないが受容と赦しはある。その喪失が馬鹿げたものであればあるほど、そこに残されたみすぼらしく片輪なものが赦しの現れなのだ。


Just Before the War with the Eskimos (1948)

この作品がなぜこの位置に、いや、この作品集に入っているのかが正直分からない。若い娘ジニーがいつもテニス帰りのタクシーに便乗するセリーナに意を決してタクシー代を請求するところから話は始まる。セリーナはイヤな顔をしつつも支払をするためジニーを家の中に招き入れる。ジニーはセリーナが母親とカネの交渉をするのを待つ間、セリーナの兄や彼を訪ねてきたその友人と偶然顔を合わせ話をする。その会話が物語の中心である。
セリーナがカネを算段して戻ってきたとき、ジニーにはもうカネはどうでもよくなっている。それよりもまた遊びに来てよいかと訪ねてセリーナを驚かせる。微笑ましいストーリーではあるが、ここには何かを深く、強く動かすようなモメントは見当たらないように思われる。もちろん、ジニーがふだんセリーナに抱いている感情の描写やジニーとフランクリン(セリーナの兄)との会話は見事にシーンを喚起しており、その手管は鮮やかだ。
だが、この作品集に収められた短編がどれも――手っ取り早く言えば――葛藤とその相克の物語なのだとしたら、ここでは葛藤もその相克も通り一遍である感が否めない。それよりはむしろ、初期短編のいくつかにあるような、演劇的なシーンの活写の巧さにその特質を見出すべき作品のように思われる。こなれた作品ではあるが、人間存在の本質にまで問題意識の深まりを見せているこの短編集にあっては何とも気楽な小品に見えてしまう。


The Laughing Man (1949)

子供たちのサークルの世話係を務める若い男性が失恋する話である。端的に言ってしまうと本当にそれだけの話になってしまう。だが、この作品ではサリンジャーの巧みな描写力と、作中作である「笑い男」の挿話によって、それだけの話が深い読後感を残す珠玉の短編に仕上がっている。物語は「笑い男」の展開と微妙に絡み合いながら、最後には予想されたとはいえ悲劇的な結末に終わる。物語というものの持つ力を実感させる作品である。
語り手はコマンチ団という子供の課外活動サークルに所属する9歳の少年である(名前は明かされない)。コマンチ団の世話係はジョンという青年でチーフと呼ばれている。チーフはスポーツにも野外活動にも通じているが、子供たちが何より楽しみにしているのは彼が語る「笑い男」という続き話であり、そこでは笑い男の数奇な冒険譚が語られる。ところがある日、チーフがメアリーという女性を連れてきたことから話は大きく展開する。
メアリーはいつの間にかコマンチ団の活動に入り込むが、やがてチーフとメアリーとの間に何らかの諍いがあったことが示唆され、彼女は子供たちの見守る中、泣きながら走り去ってしまう。そしてその日、「笑い男」の物語もまた、彼の死によって唐突で悲劇的な最終回を迎える。いかようにも読める作品であり、少年期のイノセンスが世界との最初の衝突を迎える成長譚でもあるが、ここでは物語そのものの奥行きを楽しむべきではないか。


Down at the Dinghy (1949)

グラス家の物語のひとつ、長女のブーブーを主役にした物語である。ブーブーは24歳、湖のほとりの別荘で夏を過ごし、10月になっても夫と子供とともにそこに居残っている。ブーブーの4歳の息子ライオネルが小さな「家出」をして、湖に係留したディンギー(一人乗りのヨット)に立てこもっている。ブーブーはディンギーに近づき、ライオネルにいったいなぜ「家出」しているのか問いかけるが、ライオネルはそれを明かそうとしない。
だが、ブーブーは苦労してようやくそれを聞き出す。メイドのサンドラがブーブーの夫(ライオネルの父)のことを陰で「薄汚いユダ公(カイク)」と言ったのを聞いたというのだ。この話にはライオネルが「カイク」を凧(カイト)と勘違いしているという落ちがつくのだが、もちろんそれでサンドラが雇い主を陰で侮辱した事実が消える訳ではない。ブーブーはそのようなやりきれない事実を抱えながらも、気丈にライオネルと向かい合う。
ライオネルは利発でナイーヴな少年として描かれている。そしてそのナイーブさは確かにグラス家の血脈に連なるものだが、ここではそれを知る必要もないし、また、サリンジャー自身がユダヤ系としての自らの出自にどのような感情を抱いていたかも取り敢えずいったん捨象してよい。むしろそのように利発でナイーブな少年に亡き兄シーモアの面影を見ているであろうブーブーの、イノセンスへの深い共感と希求をこそ読み取るべきだろう。


For Esme - with Love and Squalor (1950)

ヨーロッパで第二次世界大戦に従軍した米兵が、イギリスで訓練を受ける合間に知り合った少女との思い出を述懐する物語。物語は、通りがかった教会の聖歌隊で見事な歌声を聞かせていた少女エズメと主人公であり語り手でもあるX軍曹とのカフェでの束の間の会話を描写する前半と、戦争が終わった後、深刻な神経衰弱に陥ったX軍曹がエズメからの手紙を受け取る後半とに分かれている。そして最後にはX軍曹の救済が示唆されている。
短編集「若者たち」に収められた「A Boy In France」とも通底し、自身ドイツで苛烈な戦闘を経験したと言われるサリンジャーの戦争体験に深く根ざした作品と見なければならない。この物語にはX軍曹が戦場でどのような死地をくぐり抜けたかは一切語られない。だが、彼がそこでいかにひどく損なわれたかは物語の後半部分を読めば明らかだ。これは、サリンジャー自身が戦争で心に深く決定的な傷を負ったことの表れに他ならない。
物語は、X軍曹がエズメからの手紙を読み、ようやく安息の眠りを迎えるシーンで終わる。ここにはXが、そして自らが「機能万全」に戻ることへのサリンジャーの強い願いが読み取れようにも思われる。戦争という巨大な暴力装置がいかに人間を破壊して行くか、そこにおいていかにそれぞれの人間のありようが立ち現れてくるのか、そのことをサリンジャーが動かし難い絶望と怒り、そしてかすかな希望とともに描ききった重要な作品だ。


Pretty Mouth and Green My Eyes (1951)

若い女性と睦み合っている男性リーのところに、仕事上のパートナーであり、友人でもある男性アーサーから電話がかかってくる。パーティに出かけた妻が帰ってこないと言うのだ。妻の身を案じながらも(あるいはそれ故か)取り留めのない繰り言を続けるアーサーにリーは辛抱強くつきあう。なぜならリーが今、ベッドをともにしている女性こそアーサーの妻ジョーニーだからだ。哀れなアーサーとリーの会話がコミカルに展開して行く。
今からリーの家に一杯やりに行きたいと言いだしたアーサーを何とかなだめ、ようやく電話を終わらせたリーの元に、すぐさま再びアーサーから電話がかかってくる。ここに至って物語は反転する。アーサーはジョーニーがたった今帰ってきたと言うのだ。その電話が切れたところで物語は唐突に終わる。実に後味の悪い終わり方だ。コメディ・タッチで軽妙に展開してきた前半からは想像もつかない、ブラックで不条理なエンディングである。
アーサーは何かに気づいたのか、あるいは妻を案じるあまりおかしくなってしまったのか。しかしここでは解決は何も示されない。まるで筒井康隆の小説を読むようだ。リーとアーサーの会話の妙を楽しんだ後で不条理な結末に考え込めばいいのか。演劇的な構成で物語をドライブして行くサリンジャーの筆力は、タバコなどの小道具を巧みに配した演出も相まって確かなものであるが、果たしてそれを純粋に楽しむべき作品なのか。難しい。


De Daumier-Smith's Blue Period (1952)

義父とパリで青年期を過ごした主人公がモントリオールの美術学校に経歴を偽って講師の職を得るという話である。たどり着いてみるとその美術学校は学校とは名ばかりの、ムッシュー・ヨショトという謎の日本人がその夫人と二人で経営する通信添削教室であった(おまけに無免許であった)。ド・ドーミエ=スミスなる偽名を使う主人公はそこで不自由な生活を強いられながら生徒が郵便で送りつけてくる絵の添削を分担することになる。
大半の生徒の絵は救い難いものであったが、シスター・アーマという修道女の作品に主人公は心惹かれる。主人公はシスター・アーマに個人的な手紙を書き送るが、そのせいか、彼女は受講する許可を修道院長から取り消されてしまう。狼狽した主人公はしかし、学校の近くにある整形医療器具店のウィンドウでダミーのヘルニアバンドを取り替える女性を見ているうちに天啓に打たれる。「すべての人間は尼僧なのだ」と主人公は悟るのだ。
主人公はそれに先立って同じ店のウィンドウから「僕はしょせんいつまでも、琺瑯の溲瓶とおまるの並ぶ、値下げ札のついたヘルニアバンドを装着した視力を持たぬ木製のダミーの神がかたわらに立つ庭の訪問者でしかないだろう」との思いに打たれてもいる。これは神の無力と無常に関する物語と解するべきなのだろうか。発表の時期から見てもそのような仏教的なテーマを扱ったと見ることは可能だが、バランスが悪く分かりにくい作品だ。


Teddy (1953)

これはグラス・サーガではないが、サリンジャーが急速に東洋思想や仏教、禅に傾倒して行く時期の作品であり、シーモアの自殺を核とするグラス・サーガを読む上で避けては通れない重要な作品である。主人公はタイトル通りテディという名の異常に発達した知能を持つ幼い少年であり、彼は学者たちの研究の対象になっている。ヨーロッパからアメリカに帰る客船のデッキで、彼に興味を持つ教育学者とテディの間に会話が交わされる。
テディは自身を前世において「霊的に大きな進歩を遂げつつある人物だった」と言う。そして彼はミルクを飲む妹の姿を見ながら「妹は神でありミルクは神なんだとわかった」と6歳の時に看破したのだとも言う。そして周囲の人間がいつ死ぬか自分には分かるし、それは大したことではないと説明する。なぜなら死ぬということは「単に体から出るだけ」なのだから、と。明らかに輪廻転生の考え方が物語の背景に横たわっているのが分かる。
予めすべてを看破した早熟な天才少年というモチーフはグラス・サーガと通底し、テディはシーモアの子供時代の雛形と見ることもできるだろう。しかし、ここでサリンジャーが東洋思想を語る方法は、その後のグラス・サーガに比べればかなり直接的である。その分物語が説明的に流れ感興が削がれる憾みがあり、まるで説話形式の宗教書を読んでいるような印象もないではないが、巧みな会話で全体をドライブする筆力が物語を支えている。
テディは教育学者ニコルソンとの対話の中で、自分の死を予言して見せる。そのすぐ後に、空のプールの縁で後ろから悪戯好きな妹に押され、頭から転落して即死するかもしれない、と。そして物語の最後に、テディはその通りの死を迎える。これは「A Perfect Day For Bananafish」で描かれたシーモアの自殺の重要な説明になっている。死は怖れるべきものでも悲劇的なものでもなく、予めそこにあって、テディはそれを受け入れたのだ。



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