In Motion 2001 ――植民地の夜は更けて
2001年9月21日、22日の2日間に渡って鎌倉芸術館で行われたポエトリー・リーディング・ライブから10曲を収録したアルバム。当初は「Words In Motion」と名づけられたアート・ボックス(CDの他、写真集他のアイテムを収録したボックス仕様のスペシャル・パッケージ)としてウェブ・サイト「Moto's Web Server」を通じて限定発売されたが、その後CD単体でもリリースされた。レーベルは佐野の一般作品をリリースするM's Factory(エピック)ではなく、ポエトリー・リーディング作品発表のため佐野が設立した自主レーベル「GO4」(2000年にリリースされたコンピレーション「Spoken Words」もこのレーベルからのリリース)。また、同じライブを収録した同名のDVD(収録曲は一部異なる)もリリースされている。 収録曲のうち、「ポップチルドレン」と「廃虚の街」はアルバム「sweet16」に、「ふたりの理由」と「ブルーの見解」はアルバム「ナポレオンフィッシュと泳ぐ日」にオリジナルが収録されている。「Sleep」と「Dovanna」はカセットブック「ELECTRIC GARDEN」に収録された作品。また「ああ、どうしてラブソングは…」は「エーテルのための序章」のタイトルで雑誌「SWITCH」に発表した散文詩(単行本「ハートランドからの手紙」所収)の一部を朗読したものである(「水の中のグラジオラス」でもこの詩の一部が朗読されている)。 一口にポエトリー・リーディングといってもこのアルバムに収録された作品はそれぞれ言葉と音楽との関係において微妙に異なった位相にある(そのため佐野はこれらの作品をむしろ「スポークン・ワーズ」という言葉で総括することが多い)。「ふたりの理由」のように演奏と朗読が明快に呼応しメロディをつけた「歌」の部分が挿入されるものから、「こんな夜には」のように即興演奏と朗読が絡み合うものまで、さまざまなスタイルの作品が混在する中で共通するのは、音楽と言葉が互いに自己主張しながらぶつかり合うことでふだんのメインストリームの活動で聞かれる演奏とは別種の緊張感がそこに生まれているということだ。 中でも「日曜日は無情の日」はこれまでのポエトリー・リーディング作品の中でも完成度の高いものの一つに数えることができるだろう。朗読者と演奏者の渡り合いのようなやりとりの中で、言葉の喚起するイメージが増幅され拡張されて伝わって行くと同時に、楽器の響きや音色は新しい意味を獲得して行く、そうした実践的でハプニング的な相乗効果が最も顕著な形で表れているのがこの作品ではないかと思う。 また、「こんな夜には」で佐野は、このライブの10日前にあったニューヨークでの大規模テロに対してかなり直接的に言及している。その言葉遣いはまだ荒削りであり、おそらくは佐野自身がこの事件に対して混乱を抱えていたのではないかとも思われるが、ポエトリー・リーディングという直截的なメディアでその混乱をもたたきつけたパフォーマンスは評価されるべきだ。ポエトリー・リーディングは政治的でジャーナリスティックなメディアであり、ここで佐野が行ったことは間違いなくそうしたポエトリー・リーディングの本質に即したものだからである。だからこそこの作品はスリリングなのだ。 僕は、ポップな音楽表現より難解な実験の方がより「芸術的」であり佐野の表現活動の重要性はむしろポエトリー・リーディングにあるという考え方に与しない。僕にとって佐野はあくまでポップ・スターであり、孤独で寄る辺のない都市の子供たちにサバイバルのためのビートを与えることこそが佐野のなすべきことだと思うからだ。そのビートは単純でなければならないし明快に響かなければならない。あらゆる痛みや悲しみをたたえてさえ、それはハッピーに鳴らされなければならない。 だからポエトリー・リーディングの重要性は常にそうした佐野のメイン・ストリームの「歌」との関連の中でこそ語られるべきだと僕は思う。メイン・チャンネルとサブ・チャンネルを自在に往来し、周縁からの実験的な方法論を取り込むことによってメイン・ストリームの表現の活性化を図ること。その意味でポエトリー・リーディングというサイド・プロジェクトは疑いもなく重要だし、本作はそうした佐野の取り組みが生み出したひとつの興味深い実践の記録として高い水準にあるものだということができる。 2002 Silverboy & Co. e-Mail address : silverboy@silverboy.com |