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既発表の1980年代から90年代のナンバーをコヨーテ・バンドともに新たにレコーディングし直したアルバム。いわゆるセルフ・カバーであるが佐野自身はそう呼ばれることを嫌い「再定義」だとコメントしている。 クレジットによればレコーディングは2024年1月から5月にかけて行われたようで、シングルとして先行リリースされた『Youngbloods』(2024年6月)、『つまらない大人にはなりたくない』(2025年1月)を収録。『つまらない大人にはなりたくない』は『ガラスのジェネレーション』、『街の少年』は『ダウンタウン・ボーイ』、『自立主義者たち』は『インディビジュアリスト』の改題。多くの曲では歌詞にも手が加えられた。 タイトルの「ハヤブサ・ジェット」は、佐野が2020年1月にフジテレビ系「ダウンタウンなう」に出演した際、「自分の名前に飽きてきたので改名したい。たとえば『隼ジェット』とか」とコメントしたことからかねて知られていた。歌詞カードの「ハートランドからの手紙」によれば、デヴィッド・ボウイのジギー・スターダストやジョン・レノンのドクター・ウィンストン・オーブギーにあたる、佐野自身の別のペルソナだと説明されている。 『街の少年』『自立主義者たち』『君をさがしている』『約束の橋』などはコヨーテ・バンドによる以前からのライブ・アレンジを下敷きにしたもの。これらのほか、『Youngbloods』『つまらない大人にはなりたくない』『ジュジュ』『欲望』などは2024年のツアー「Zepp Tourで逢いましょう」などのライブで先行して披露されていた。 このアルバムで佐野が「再定義」しようとしたものはなんだったのか。それは必ずしも一義ではない。 たとえば『街の少年』。1981年、『SOMEDAY』に続く5枚めのシングルとしてリリースされたが録音状態が悪く、アルバム「SOMEDAY」収録にあたってレコーディングをやり直したいわくつきの曲だ。しかし、サックスをフィーチャーしてメロウな仕上がりになったアルバム・バージョンに対して、当初のシングル・バージョンのほうが楽曲の初期衝動をよりくっきりと反映していることは明らかであり、その後シングル・バージョンの音像を鮮明にするためリミックスが何度も試みられてきた。 今回この曲は当初のシングル・バージョンを驚くほど忠実に踏襲した演奏で収録された。他の曲と異なり歌詞にも変更は加えられていない。一方で佐野はこの曲をシャウトするのではなく、むしろささやくような、語りかけるようなボーカルで聴かせる。そこには44年の年月があり、一世代も、二世代も下の街の少年たちに対する視線と、かつて街の少年であった僕たちへの視線とが重なり合う。その重層性にこの曲の再定義の意味はある。 かつて「すべてをスタートラインに戻してギアを入れ直していた」すべての少年たちに。「たったひとつだけ残された最後のチャンスに賭けていた」すべての少年たちに。そのチャンスを僕たちはつかみ取ることができたのか。あるいはその物語はまだ完結してはいないのか。その結末はだれも知らない。だれも知らないからこそ僕たちはこの曲を愛さずにはいられない。 あるいは『欲望』。かつて絞り出すように歌われたこの曲は、ここではアンビエントなバック・トラックに乗せて、より同時代的に響く。1993年に歌われた都市生活のブルースは、2020年代の、分断される魂、ぐちゃぐちゃにかき回された真実、憎悪と詐言、尊厳のディスカウントセールといった僕たちの精神の危機をあまりにも正確に言い当てていたのではなかったか。 佐野はもちろんこうした世界の到来を具体的に予見していたわけではない。佐野はただ、人の心の奥深いところにある、時代が変わっても変わりようのない本質、本性のようなものを、詩人として、まるで炭鉱の中のカナリアのように警告しつづけてきたのだ。それが今、僕たちの目の前にあるあまりにもバカげた、救いのない現実とフックしているのに過ぎない。その普遍性にこの曲の再定義の意味はある。アレンジは『Dovanna』『僕は愚かな人類の子供だった』といったポエトリー・リーディングの楽曲を彷彿させる。このアルバムでもっともスリリングなトラックになった。 そして『つまらない大人にはなりたくない』。この曲は1980年に2枚めのシングル『ガラスのジェネレーション』としてリリースされた。スタジオ・ミュージシャンによって演奏されたこの曲は、1987年のツアー「Café Bohemia Meeting」ではザ・ハートランドによってスローにアレンジされたバージョンで演奏され、2006年にはホーボー・キング・バンドによってリテイクされた。 「つまらない大人にはなりたくない」というパンチ・ラインをあらためてタイトルにして歌われるこの曲は、長いあいだ佐野の、佐野とファンとのあいだの約束であった。僕たちが、実際には容易ならぬ日々のシノギのなかで、それでもつまらない大人にならずに生きながらえることがてきたのか。45年の年月ののちに問われるその問いの答えは、もはや約束であるよりはひとつの希望、切実な渇望ではないのか。 そこにまだ祈るに値する最後の誠実さ、真摯さはあるのか。佐野が再定義したのは、この不確かな世界で僕たちがなにをよりどころにして善く生きるかということであり、そこにまだ古い誓約があるのなら、今こそそれを更新しよう、ホコリを払って新たに定義しなおそうということなのだ。誓約の更新、それこそがこの曲の再定義だ。物語はこれから語られるのだ。 曲によって出来のバラつきはあるが、佐野の問題意識は明確だ。「新しい世代の音楽リスナーにも聴いてほしい」という佐野のコメントどおり、まっさらな作品としても聴ける一方で、長く聴き続けたファンにとってはむしろ自らの来し方行く末を問われる、自身の再定義をこそ迫られる作品だと思う。 2025 Silverboy & Co. |