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「東京奇譚」から9年ぶりの短編集。雑誌「文藝春秋」2013年12月号から2014年3月号に発表された4編に、雑誌「MONKEY」に掲載された『シェエラザード』、書き下ろしの表題作『女のいない男たち』を加えた6編を収録している。

「まえがき」によればこれらの作品は概ねひとまとまりものとして比較的短期間に書かれたものらしい。テーマはもちろん「女のいない男たち」。表題作が示唆的だが、この作品集は女性が傍らにいるということ、あるいはいないということが媒介する過剰や欠損をいくつかのシチュエーションを借りて描き出したものである。

しかし、考えてみれば「女性に去られた男性」は物語の鋳型のひとつとして村上春樹のこれまでの作品でも繰り返し用いられてきたもので、ここに収録された作品には過去の作品を思わせる設定や描写、情景がいくつも出てくる。ある種の既視感があるのは否めず、少なくともテーマとしての新鮮さには乏しい。

前回の短編集から9年を置いて、村上がこれまで作品のひとつの核として重視してきたモチーフを敢えて意図的に洗い直したものか、あるいは村上の中に湧きあがったインスピレーションがたまたまこれまでいろいろな作品に忍ばせてきたテーマとフックしたものか、いずれにせよ我々読者は作品の中から読み取り、推し量るしかない。過去の作品との関連もひっそりと楽しむべきものかもしれない。

親知らずを抜いて歯茎に穴が空けば、肉が成長してその穴をふさぐように、僕たちの心の中に確かな場所を占めていたひとつの関係性が失われると、何か別のものがその空白を埋めようとすることがある。そのプロセスは、時としていびつでグロテスクなものであり得るし、僕たちの内なる空白が禍々しい呪術的な何かとつながるための回廊の役割を果たすこともある。ここにあるのはそうしたプロセスをめぐる物語である。

ドライブ・マイ・カー

俳優の家福は仕事の都合で自家用車の運転手を雇うことになる。紹介されたのはみさきという20代の女性。美人ではないが運転には長けており、寡黙なその女性を家福は雇うことにする。そしてみさきに問われるままに、家福は10年以上前に子宮癌で亡くなった妻のこと、そして妻が家福に隠れて関係を持っていた高槻という俳優との奇妙な交際のことを語るのだった。
宿命的な弱さを抱えた俳優・高槻の造形からは『ダンス・ダンス・ダンス』の五反田君を思い出すが、この作品が何より想起させるのは短編『トニー滝谷』。妻を亡くしたことから生じた空白に、妻の抱えた問題に自らコミットすることで入りこんで行く物語の構造は酷似している。
ここでのテーマは妻の不実を知りながらそれを受け流したことで負った自分の傷に対して、妻を失った後、その不実の相手であった高槻と素知らぬ顔で酒を飲むことで、むしろより深く背負うしか対応を見つけられなかった家福の心の動きである。高槻は言う。
「ですから結局のところ僕らがやらなくちゃならないのは、自分の心と上手に正直に折り合いをつけていくことじゃないでしょうか。本当に他人を見たいと望むのなら、自分自身を深くまっすぐ見つめるしかないんです」
高槻は何かを深く物事を考えることのできる人物ではない。「はっきり言ってたいしたやつじゃないんだ」と家福も言う。そして妻がなぜそんななんでもない男に抱かれなければならなかったのか家福は今も呻吟している。それに対してみさきは言う。
「『奥さんはその人に、心なんて惹かれていなかったんじゃないですか』とみさきはとても簡潔に言った。『だから寝たんです』」
それは救いであり赦しである。「女を失う」ということの本質についてのひとつの稀有な省察だと思う。

イエスタデイ

「僕」が早稲田大学文学部2年生のときに知り合った同い年の浪人生・木樽とそのガール・フレンドえりかとのエピソード。木樽は大田区田園調布に生まれ育ちながら、関西弁を学習して完璧にしゃべれるようになるなどどこか変わった男。木樽は「僕」にえりかとつきあって欲しいと言う。
この作品を呼んで思いだすのはやはり『ノルウェイの森』だろう(タイトルもそれを示唆しているように思われる)。木樽とえりかは、キズキと直子のようにも、永沢さんとハツミさんのようにも思える。大学時代という舞台設定も共通している。しかし、最も重要なのは、ふたつの作品がどちらも、自分の考える自分と実際の自分との微妙な不一致を絶望的に認識する年代の心の遠近を精妙な一点透視で描いていることであり、そこに僕たちの生のひとつの原型があることを示唆していることだ。
木樽とえりかは幼馴染で自然にカップルになったが、木樽はそのような関係に違和感を抱いている。「いっぺんこのへんで別々の道を歩んでみて、それでやっぱりお互いが必要やとわかったら、その時点でまた一緒になったらええやないか」と。「僕」はよく納得できないものの成り行きでえりかとデートしウディ・アレンの映画を見に行く。
えりかが「僕」に語る「氷の月の夢」のエピソードが印象的だ。
「私たちは二人だけで小さな船室にいて、それは夜遅くで、丸い窓の外には満月が見えるの。でもその月はきれいな氷でできてる。そして下の半分は海に沈んでいる。(中略)その夢を繰り返し見た。とても美しい夢なの」
「月は朝になったら溶けてしまうけれど、夜にはまたそこに姿を見せる。でもそうじゃないかもしれない。ある夜、月はもう出てこないかもしれない。そのことを思うとひどく怖い。明日自分がどんな夢を見るのか、それを考えると、身体が音を立てて縮んでいくくらい怖い」
自分がよく知るはずの自分という容器から自分があふれ出したり、そこに盛るべき自分という内実があまりに乏しいことを知って右往左往したりするままならぬ年代。その時期に僕たちは異性を切実に求め、そのせいでそれは時として悲劇とも喜劇ともつかないドタバタに見える。そしてそれは僕たちがその後異性と関わり合う原像になってしまう。なぜならそれが孤独というものの本質だからだ。

独立器官

裕福で有能な52歳の美容整形医・渡会に関する物語である。渡会は「筋金入りの独身主義者」であり、そのために人妻や他に恋人を持つ女性たちとばかり交際していた。魅力的な女性たちとの親密な、知的な、そして限定された形での触れあい。それはある時まで問題なく機能していたのだが。
人妻や他に恋人を持つ女性とばかり交際する男性という点では短編集「回転木馬のデッド・ヒート」に収録されている短編『嘔吐1979』を思い起こさせる作品。技巧的で特殊な関係の引き受け方がやがて現実に歪みを生じさせるという構造も似ている。
だが、渡会医師はある女性に宿命的に恋してしまう。「彼女にもうこのまま二度と会えないんじゃないかと思うと、(中略)身体がまっ二つに引き裂かれるようです」。それはごく当たり前の恋愛感情のように思われるが、これまで女性と技巧的な関わり方しかしてこなかった渡会医師には恐ろしく理不尽で困難な状況に思われるのだ。
そして渡会医師はさらに根源的な問いかけに行き着く。自分とはいったいなにものなのだろう、と。ナチの強制収容所に関する本を読んで渡会医師はそのように自分に問いかけるのだ。自分の社会的な属性やささやかな特権を剥奪されたら、自分はいったいなにものになるのだろう、と。
やがて渡会医師は「僕」の前から姿を消す。彼はその女性から手ひどい扱いを受け、自ら一切の社会生活を拒否し、食べ物を食べず自宅に引きこもってしまった。彼は自ら自分の属性や特権を取り払おうとしたのだ。そして少しずつ痩せさらばえて最後にはそのまま死んでしまう。まるで即身成仏のように。
「独立器官」というのは、僕たちのうちにありながら、僕たちの自律的な心の動きとは別に、抗い難く僕たちを動かす感情を司るもの。女性はその器官の命じるままに顔色ひとつ変えず嘘をつくし、渡会医師はその器官に動かされて破滅的な恋に落ちた。それは僕たちひとりひとりに備わっているのだ。

シェエラザード

「ハウス」に匿われている羽原と、彼の元に物資の補給に訪れる女性との奇妙な交情の物語。羽原が「ハウス」に匿われている事情は明かされないが、おそらくは罪を犯し司直の手から逃れようとしているのだろうと推測される。女性は彼の元を定期的に訪れ、物資を補給しては彼とベッドに入り、セックスをして「興味深い、不思議な話」を聴かせてくれる。彼は彼女のことを、「千夜一夜物語」にちなんでシェエラザードと名づける。
この作品のみ「文藝春秋」ではなく「MONKEY」に収録されたもので、分量も「文藝春秋」に掲載された他の4編に比べれば少ない。マンションの一室に匿われ連絡員が物資の補給に訪れるという描写は『1Q84』での青豆を想起させる。
シェエラザードはこれといって特徴のない35歳の主婦である。だが、「シェエラザードは相手の心を惹きつける話術を心得ていた」。そしてある時彼女は、自らが高校生だった頃、恋心を寄せた男子生徒の家にひそかに忍びこんだときのことを語り始める。彼女は一度ならず、二度、三度までも彼の家に忍びこみ、彼の持ち物を持ち帰る代わりに自分のささやかな持ち物(生理用タンポンと3本の毛髪)を置いてきたというのだ。
シェエラザードが話を終えて帰ってしまった後、羽原は一人の部屋でふと考える。
「彼女はひょっとして、もうこのまま姿を見せなくなるかもしれない。(中略)現実の中に組み込まれていながら、それでいて現実を無効化してくれる特殊な時間、それが女たちの提供してくれるものだった。(中略)それをいつか失わなくてはならないであろうことが、彼をおそらくは他の何よりも、悲しい気持ちにさせた」
海底の石に吸いつき、逆さに揺れながら捕食すべき鱒が通りがかるのを待つやつめうなぎのイメージが印象的。初期短編に通じる手触りの作品。

木野

木野は出張から1日早く帰宅したために、職場の同僚と自分の妻がセックスをしているところを目撃してしまう。木野は妻と別れ、家を出て、小さなバーを開く。バーの名前は「木野」という。
妻の不貞が原因となって離婚するという展開や「私たちの間には、最初からボタンの掛け違いみたいなものがあったのよ」という妻の言い分からは『羊をめぐる冒険』を思い出す。またバーに居ついた猫が姿を消す描写は『ねじまき鳥クロニクル』そのままだ。
バーの経営は軌道に乗ったように思えたが、ある時、常連のカミタという男が木野に告げる。
「『木野さん』とカミタは勘定を済ませたあと、あらたまった声で言った。『こんなことになってしまって、僕としては残念でならないのです』
『こんなことって?』と木野は思わず聞き返した。
『この店を閉めざるを得なくなったことです。たとえ一時的にせよ』」
カミタは「多くのものが欠けてしまった」のだと説明する。「木野さんは自分から進んで間違ったことができるような人ではありません。それはよくわかっています。しかし正しからざることをしないでいるだけでは足りないことも、この世界にはあるのです。そういう空白を抜け道に利用するものもいます」と。
木野はカミタに言われるまま店を閉め、ひとり旅に出るが、カミタから厳しく言われた禁を破ってしまう。その夜、木野の泊まるホテルに何者かが訪れる。
「おれは傷つくべき時に十分に傷つかなかったんだ、と木野は認めた。本物の痛みを感じるべきときに、おれは肝心の感覚を押し殺してしまった。痛切なものを引き受けたくなかったから、真実と正面から向かい合うことを回避し、その結果こうして中身のない虚ろな心を抱き続けることになった」
木野が遭遇する「部屋をノックする何者か」は僕たちのすぐ隣に潜み、僕たちがそれを招き入れるのをじっと待っている何か。それは僕たちの中の弱さと呼応し、共振し、それを栄養とする何か。それがノックするのは僕たち自身の心臓に他ならない。
暗く、救いはないが、文学が文学の名においてたどり着かなければならない場所に降り立ち、表現が表現の名において流さなければならない血を流した、村上の中でもひとつの指標となり得る作品だ。この作品集の中でも間違いなく最もハード・エッジで鋭利な一編。

女のいない男たち

書き下ろしの短編で他の収録作に比べれば分量は少ない。午前1時過ぎにかかってきて「妻は先週の水曜日に自殺をしました、なにはともあれお知らせしておかなくてはと思って」と告げる男性からの電話。死んだのは「僕」がかつてつきあっていた女性。
このシーンはもちろん『1Q84』で天吾が関係を持っていた女性の夫から受ける電話と相似している。「家内はもうお宅にはお邪魔できないと思います。申し上げたいのはそれだけです」。
しかしこの作品ではそこから物語は始まって行かず、その女性(仮に「エム」と名づけられる)とその不在についての散文詩的考察になって行く。
「僕は実を言うと、エムのことを、十四歳のときに出会った女性だと考えている。実際にはそうじゃないのだけれど、少なくともここではそのように仮定したい」
「ほんとはそうじゃないのだけれど、そう考えるとものごとの筋がうまく繋がる。僕は十四歳で彼女も十四歳だった。それが僕らにとっての、真に正しい邂逅の年齢だったのだ。僕らは本当はそのように出会うべきであったのだ」
「自分がここでいったい何を言おうとしているのか、僕自身にもよくわからない。僕はたぶん事実ではない本質を書こうとしているのだろう」
「そして彼女の死と共に、僕は十四歳の時の僕自身を永遠に失ってしまったような気がする。(中略)僕の人生からは十四歳という部分が根こそぎ持ち去られている」
「事実ではない本質」を書くことこそがフィクションの作用だとするなら、村上は物語を経由せずに「事実ではない本質」を書くことでその作用を明らかにしようとしているというべきか。生硬で抽象的な作品であり、肩に力の入ったいくつかの初期短編(例えば『貧乏な叔母さんの話』など)を思い起こさせるところも興味深い。
表題作だがいささか挑戦的な観念小説。「女のいない男たちになるのはとても簡単なことだ。一人の女性を深く愛し、それから彼女がどこかに去ってしまえばいいのだ」。そして人は十四歳の時の自分を永遠に失うのだ。



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