logo 東京奇譚集


5年ぶりに発表された短編集。「新潮」2005年3月号から6月号までに掲載された4編に加え、書き下ろしの「品川猿」を合わせた5編を収めている。

「奇譚」というタイトル通り、どれもそれぞれ少しばかり変わった話ばかりである。とはいえそれはもちろんホラーやミステリー、怪奇譚といった種類のものではなく、何かを物語るために「奇譚」という形を借りただけの紛れもない村上春樹の小説である。読み進めて行けば、確かに奇妙な物語ではあっても、その奥にあるその核のようなものを物語るためには、それがこうした荒唐無稽な物語の形を取るしかなかったのだということが分かるだろう。

ここに共通しているのは、奇妙なできごとそれ自体よりも、それに出会った人間がそれを通じてどう内なる闇や未知なる自分自身に巡り会い、向かい合い、そしてそれと折り合って行くのかという極めて内面的なモメントである。偶然であり、超常的であり、滑稽ですらあるような奇譚を経験しながら、ひとりの人間がそれによって呼び起こされる自分の中の感情にどう立ち向かって行くかという物語である。

一冊の単行本としては分量も多くはないし、僕自身としては今ひとつ納得しがたい性急さのようなもの、安直にステロタイプに帰結するような部分もある。しかし、これが繰り返し読むに足る短編集であることは確かだし、読み返すにつれ、僕たちの記憶の隙間のような場所に、――大がかりな長編小説よりもずっと――親密に、深く働きかけてくる作品集であると思う。

偶然の旅人

ゲイのピアノ調律師がカフェで偶然隣り合った女性との出会いを通して長い間義絶していた姉との和解を果たすという物語。冒頭に村上自身と名乗る語り手が登場し、「不思議な出来事」についてささやかなエピソードを披露する。
女性との出会いのあと姉に連絡を取った調律師はある偶然の一致に驚くことになる。
「偶然の一致というのは、ひょっとして実はとてもありふれた現象なんじゃないだろうかって。(中略)でもその大半は僕らの目にとまることなく、そのまま見過ごされてしまいます。(中略)しかしもし僕らの方に強く求める気持ちがあれば、それはたぶん僕らの視界の中に、ひとつのメッセージとして浮かび上がってくるんです。(中略)そして僕らはそういうものを目にして、『ああ、こんなことも起こるんだ。不思議だなあ』と驚いたりします。本当はぜんぜん不思議なことでもないにもかかわらず」
物語が最終的にかつていさかいをした姉との和解、赦しといういわばありふれたファミリー・アフェアに帰結してしまうところに作品としての弱さを感じるが、ゲイの調律師という人物造形の巧みさと丁寧な描写で物語の背骨がしっかりできあがっていることで救われている。先の調律師の「偶然の一致」観に対し、「僕としてはどちらかといえば、もう少しシンプルに、ジャズの神様説を信奉し続けたいけどね」と村上としての「僕」が述べるところが自己言及的で興味深い。すべてはあらかじめあるがままにそこにあり、ただ僕たちに気づかれるのを待っているのだ、世界はそのようなメッセージに充ちているのだという世界観はしかし、確かに村上のものだと思う。

ハナレイ・ベイ

ハワイのハナレイ湾で一人息子を亡くした女性の物語。彼女の息子はそこでサーフィンをしているときに鮫に襲われて死んだのだ。それ以来彼女は毎年息子の命日近くにハナレイを訪れ滞在するようになる。そこで出会った二人組の若い日本人のサーファーとのエピソードがこの物語の中心になっている。
二人はビーチで日本人の片足のサーファーを見たという。それは彼女の息子の亡霊に違いない。彼らには姿を見せる息子がなぜ自分には姿を見せてくれないのか。彼女は自問する。しかし答えは出ない。
彼女は息子を「人間としてはあまり好きになれなかった」。そのことと彼女が息子の姿を見ることができないこととの関係は明らかにはされない。しかし、自分の意志で自分の進路を決めることに慣れてきた、どちらかといえば「強い」女性の背後にある柔らかく傷つきやすいもののことをこの物語は描いているように僕には思われる。そしてそれは自分が好きになれなかった息子と同じように若く頼りないサーファーとの出会い、彼らとの何ということのない会話の中で次第に露わになって行く。二人組のサーファーは死んだ息子の亡霊の存在を彼女に伝えるための霊媒、口寄せなのかもしれない。
「彼女にわかるのは、何はともあれ自分がこの島を受け入れなくてはならないということだけだった。(中略)私はここにあるものをそのとおり受け入れなくてはならないのだ」。すべてはあらかじめあるがままにそこにあるという世界観はここにも示されている。これは彼女が息子の死と二人のサーファーとの出会いを媒介にして手に入れた「気づき」の物語なのだ。

どこであれそれが見つかりそうな場所で

「純粋なボランティア」で人捜しを請け負う男の物語。彼のもとにある日一人の婦人が訪れる。マンションの階段の途中でいなくなってしまった夫を捜して欲しいというのだ。男はそのマンションに出かけ、夫がいなくなったと思われるマンションの階段で「しるし」を捜す。そしてマンションの階段を利用する人たちとの間で言葉を交わす。
結局、夫は仙台で失踪の間の記憶をなくしたまま発見される。もちろん物語的にはそれはもはや重要なことではない。ただの後日譚のようなものだ。むしろこの物語の中核にあるのは「私」がマンションの階段の踊り場で住人たちと交わした言葉、そこで見つけようとしたものに他ならない。
「ときとして私たちは言葉は必要とはしません」「しかしその一方で、言葉はいうまでもなく常に私たちの介在を必要としております。私たちがいなくなれば、言葉は存在意味を持ちません」と階段を通ってタバコを買いに行く老人は言う。
また、階段を通りがかった小学生の少女に何を捜しているのかと問われた「私」は「たぶんドアみたいなものだと思うけど」と答えながら、実はそれは「ドアでさえないかもしれない」と思う。「でも一目見れば、その場でぱっとわかるはずなんだ」と。
「『ふうん』と女の子は言った。『おじさんはそれを長いあいだ捜しているの?』
『ずいぶん長く。君が生まれる前からずっと』」
「私」が捜しているのはいったい何なのだろう。それは異界への入口なのだろうか。階段の踊り場に取りつけられた鏡がその入口なのだろうか。だがその異界はおそらくどこか遠い場所あるのではない。それはむしろ自分の中にあるのだ。自分の中にありながらまだ自分自身も覗いたことのない闇、異界。「私」が、そして僕たちが捜し求めているのはそのような自分自身の中にあって自分を自分たらしめている豊穣な闇であり、そこへ降り立つための扉、媒介なのだと思う。

日々移動する腎臓のかたちをした石

「神の子どもたちはみな踊る」に書き下ろされた「蜂蜜パイ」の淳平が父親からかけられた呪いと、巡り会った一人の女性についての物語。時期的には「蜂蜜パイ」以前の話だと考えられる。
淳平は父親から「男が一生に出会う中で、本当に意味を持つ女は三人しかいない」と教えられた。そのうちの一人とは既に出会い、彼女は親友と結婚して子供をもうけてしまった(小夜子と高槻のことだろう)。あと二人。そして淳平はあるパーティーでキリエという年上の女性と巡り会う。
すぐに二人は親しくつきあうようになった。ある時キリエは作家である淳平が今書いている作品のことを知りたがる。淳平は行き詰まっている「腎臓のかたちをした石」についての物語を彼女に話して聞かせる。そして話しているうちに、行き詰まっていた物語は意外な方向に展開し始めるのだ。キリエに話して聞かせることで、淳平の中にあった物語はひとりでに流れるべき水路を見つけたのだ。キリエは言う。
「風だけじゃない。あらゆるもの。石もそのひとつね。彼らは私たちのことをとてもよく知っているのよ。どこからどこまで。あるときがきて、私たちはそのことに思い当たる。私たちはそういうものとともにやっていくしかない。それらを受け入れて、私たちは生き残り、そして深まっていく」
しかし、その「石」についての短編小説が完成したとき、キリエは彼の前から姿を消す。キリエは淳平の中の何かをリリースするための媒介だったのだ。最後にキリエの「職業」が明かされ、淳平は彼女が「二人目」だったことを悟る。そして「大事なのは誰か一人をそっくり受容しようという気持ちなんだ、と彼は理解する」。この認識は「蜂蜜パイ」につながって行くもののような気がする。

品川猿

本作のための書き下ろし。自動車のディーラーに勤務するみずきは時折自分の名前が思い出せなくなる。軽い気持ちで訪れた品川区の区民向けカウンセリング・サービスで彼女は坂木という中年の女性カウンセラーと出会い、そして物語は意外な結末へと向かう。
かつて彼女が高校生だった頃、彼女は同じ寮で暮らしていたひとつ年下の女生徒から帰省の間預かって欲しいと名札を託される。しかしその女生徒はそのまま失踪し自殺してしまった。彼女はその名札を自分の名札とともに卒業後も持ち続けている。そのことをカウンセリングの中で思い出した彼女は名札を捜してみるがいつの間にかそれはなくなっていた。
ある時、坂木はみずきの「名前忘れ」の原因を突き止めたという。そしてみずきが失った2枚の名札を示す。それは一頭の猿が盗んだものだった。坂木は品川区の土木課長である夫の力を借りてその猿を捕まえ、名札を取り戻したのだ。
その猿は自殺した女生徒に恋い焦がれるあまり、その名前を盗もうと長い間名札の行方を捜していたのだという。そしてそのありかをついに見つけたとき、みずきの名前にも心を惹かれ一緒に盗んでしまったのだと。
この短編集を貫いている「あらかじめあるがままにそこにあるもの」とそれが何かを媒介にして我々の意識の表面に浮かび上がる瞬間というテーマをこの作品はよりはっきりと指し示している。なぜなら名前というのは普遍的にそこにある実体の海から特定の部分をすくい取って我々の具象的な営みの世界に結びつける最も典型的で最も象徴的なモメントに他ならないからだ。名前の喪失と回復という物語はこの作品集の中心的な骨組みをなしている訳だ。猿は言う。
「わたしはたしかに人さまの名前を盗みます。しかしそれと同時に、名前に付帯しているネガティブな要素をも、いくぶん持ち去ることになるです」「選り好みはできません。そこに悪しきものごとが含まれていれば、わたしたち猿はそれをも引き受けます。全部込みでそっくり引き受けるのです」
それは我々がふだん認識している世界の背後にある大きな実体の海には善も悪もないということに他ならない。そこにはただすべてがあるがままにあるのだ。僕たちにそれを選り好みすることはできない。だからこそ、この物語の最後で名前を回復したみずきが、「ものごとはうまく運ぶかもしれないし、運ばないかもしれない。しかしとにかくそれがほかならぬ彼女の名前であり、他に名前はないのだ」という認識に至ったことは――この物語がこの作品集のために書き下ろされて最後に置かれたことも含め――重要である。
猿がみずきの名前に付帯している「悪いこと」について述べる下りがややステロタイプで平板なのが残念だが、「名前を盗む猿」は「かえるくん」同様、それが滑稽であればあるほどある種の象徴性を際だたせている。それはこの作品集が「奇譚集」でなければならない理由をも端的に物語っているのだと思う。



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