logo 回転木馬のデッド・ヒート


「はじめに・回転木馬のデッド・ヒート」と題された短い文章の中で、村上はこの本に収録された作品について、それらは正確な意味での小説ではなく、何人かの人たちから話を聞き、それを文章にしたものであると述べている。その作業は長編に取りかかるためのウォーミング・アップとして始めたもので、できあがった文章は発表するつもりもなく机の中にしまい込まれるべきものであったのだと。

しかし、書き進むうちにそれらの話のひとつひとつが「話してもらいたがっている」ように感じられてきた、と村上は言う。それは本質的に「僕の小説」と「僕の現実生活」のズレから生じるおりのようなものであり、「彼らは語られたがっていたのだ」。なぜならそれらは人々の生を垣間見ることによって僕たちの中に生まれる「無力感」であり、その本質は「我々はどこにも行けない」という認識だと言うのである。

我々の人生という運行システムは我々自身を規定しており、それゆえそれは回転木馬のように、定まった場所を定まった速度で巡回しているに過ぎないのだというのがこの書名の由来である。もちろん、ここに書かれていることが事実かどうか、実際のところは分からない。あるいは村上が本当にだれかに聞いたことをまとめたものかもしれないし、あるいはそういうテーマ、スタイルを借りて書いたまったくのフィクションなのかもしれない。

しかし、もちろん、そんなことは僕たち読者にはどうでもいいことである。重要なのは村上がそういう体裁で、あるいはそういう前提で本作を書いたということであり、おそらくはそういう形でしか書き得ないものがあると村上が考えたということなのだ。だとすれば、ここにある短編がそれぞれ事実に即していようといまいとそんなことはこの作品集を読む上では何の関係もない。むしろ、僕たち自身と僕たちの現実生活とのズレから生じ少しずつ僕たちの中にたまって行くおりが明らかにする「無力感」と、事実というものの奇妙さ、不自然さの本質を見極めようとする視線がこの短編集のすべてなのだ。

レーダーホーゼン

中年の婦人がドイツに旅行し、夫から土産に所望された半ズボン――レーダーホーゼンを買う間に離婚を決意する、というストーリー。レーダーホーゼンを合わせるために探してきた夫とそっくりな体型のドイツ人を見ているうちに、夫に対する耐え難い嫌悪感が湧き起こってくるというのがこの作品の「ポイント」だが、そこには日常の中に潜む裂け目から一つの真実が露わになって行く瞬間がある。しかしそのおぞましさ、グロテスクさは村上の巧みな話術によって一つの文学作品へと昇華されている。これが本当に村上の聞き書きだとしても、あるいはまったくのフィクションだとしても、この平易な語り口の中に、これだけ濃密な人生の瞬間を滑り込ませる村上の手際の鮮やかさには舌を巻くしかない。

タクシーに乗った男

ある画廊の女主人がそれまでに見た最も「衝撃的」な絵について話すという形でその絵にまつわるエピソードが語られる。タクシーに乗った一人の男を描いたその絵は、決して絵画として高い価値を持つものでもない、無名の青年が描いた凡庸な絵に過ぎない。しかし彼女はその凡庸さゆえにその絵を手に入れずにはいられなくなるのだ。その絵を焼くことで彼女は自分の中の何かを封印するが、その何かはしかしその絵の男とアテネで偶然出会うことで決定的に失われてしまう。我々の営みとは、詰まるところそのような種類の凡庸さと、それを飲み込んで行く想像を超えた奇妙さなのだということを象徴的に語る作品である。一枚の絵を挟んで対峙する虚実と、それが交錯するシーンの描写に息を呑む。

プールサイド

ある男が人生の折り返し点を35歳と決め、その日を迎えるという物語。いくつかの点を除けば申し分のない状態で人生の折り返し点を迎えた男は、しかしそれを確認した後、ビリー・ジョエルの音楽を聴きながらアイロンがけをする妻の姿を見て我知らず涙する。彼には自分の中の何がそのように動かされるのか理解することができない。それはおそらく、自分が老いていることの自覚であり、もっともらしい生活、説明可能な幸せとひきかえに失われた取り返しのつかない時間への悔恨であっただろう。この短編集の他の作品に比べればやや深みに欠ける感は否めない。

今は亡き王女のための

決定的にスポイルされ他人の気持ちを傷つけることが「天才的に」上手い美しい少女と「僕」との奇妙な一夜の経験と、その後日譚である。本当にそんな女の子がいるのかどうか僕には分からないが、前半での彼女の性格についての丁寧な描写が、彼女の存在をまずありありと浮き立たせ、それが中盤での彼女との濃密な体験の息苦しさをよりリアルなものにしている。そのまま欲望の巨大な流れに身を任せてしまいたいという気持ちと、こんな状態でそうなってしまったらどんな面倒な状況になるかという混乱が手に取るように分かる。これこそがフィクションの力である。この場面の生命力に満ちた切迫性に比べれば、後半の後日譚はやや蛇足とも思えるほどだ。

嘔吐1979

友達の恋人や奥さんと寝るのが好きな男が、ある日突然激しい吐き気を感じて胃の中の洗いざらい吐いてしまい、それから1ヶ月以上食べては吐き続けたが、ある日突然その吐き気が襲ってこなくなったという話である。吐いている間、どこにいても彼の名を告げるだけの奇妙な電話がかかってくる。一種のホラーであり、ミステリーでもある(もちろん謎は解かれないが)。なぜそのような吐き気が襲ってくるのかは分からないし、その電話と吐き気の関係、彼が友達の恋人や奥さんと寝ることとの関係も分からない。しかし小説的にはもちろんそれらは関係している。微妙な精神や神経の歪みが行為の歪みになり、空間の歪みになり、現象の歪みになる。そこに論理的、物理的な因果律があろうとなかろうと、それらは小説的世界では互いに密接に結びついているのだ。

雨やどり

担当する雑誌の廃刊とともに会社を退職した女性編集者が、次の仕事に就くまでの間、ふとしたきっかけからバーで男達に身を売るようになるというエピソードである。彼女は退職と同時に、それまでつき合っていた同僚の妻子ある編集者とも別れる。そうして生じた奇妙な空白の中で一人束の間の休暇を過ごすうちに、バーで知り合った獣医に言い寄られ、「私は高いのよ」と言い放ってしまうのだ。「彼女と寝ることじたいは悪くなさそうだったが、それに対して金を払うというのはちょっと妙なものだろうな、と僕は思った」。知り合いの女性から、自分はカネをもらって男と寝ているのだと打ち明けられたりすると、そこにはセックスの意味とか価値とかいうものについての混乱やねじれが生じる。「セックスが山火事みたいに無料」かどうかはともかく、そのねじれがこの作品を成立させているのは間違いない。

野球場

ある女性に好意を寄せるあまり、彼女の部屋が覗ける野球場の脇の部屋を借り、望遠レンズでその部屋でのできごとをつぶさに見守った経験のある男の話である。いったん始めるとそれは彼の中の暴力性をどんどん解放してしまう。彼は我を忘れてその行為に没頭する。おそらくそれはファインダー越しに女性の部屋を覗くという行為の非対称性に起因するしているのだろう。そうした一方的な関係が自分の中に呼び起こすいびつな欲望は、しかし実際にはそれ以前から自分の中に眠っていたものだったのだろう。拡大し分析することによって僕たちはある種の本質に近づくとともに総体からは遠ざかって行く。ここでも村上の丁寧な描写が、ありそうな話の背後に潜む人間存在の理不尽な核をあぶり出すのだ。

ハンティング・ナイフ

夏休みを過ごすリゾートのコテージで出会った車椅子の青年との不思議な交流、そして最後に彼が「僕」に試し切りを頼むハンティング・ナイフの異様な切れ味。ストーリーとしては奇妙な部分もねじれた部分もない、ただ、淡々とリゾートでの暑い日々が過ぎて行くだけである。しかしそうしたリゾートの本質である退屈な毎日の限りない反復と非日常性の中で、車椅子に乗った青年と精神に病のあるその母親のペアを見続けているうちに、「僕」が見つめる現実の位相は少しずつずれ始めてしまうのだ。その彼が「ある日突然、無性にナイフというものが」欲しくなって手に入れたハンティング・ナイフは、そうした日常からの乖離、離脱を象徴しているかのようだ。おそらく、リゾートで僕たちは死を模擬体験するのかもしれない。



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