螢・納屋を焼く・その他の短編 82年11月から84年3月にかけて発表された5編の作品を収載した第3短編集。「カンガルー日和」が連載の掌編をまとめたものであったことを考えると、実質的には2つ目の短編集と言ってもよい訳だが、驚くべきことにここで村上は既に作家的成熟を遂げ、収録された作品はどれも明快な焦点と深い文学的省察を備えるに至っている。 特に、後に「ノルウェイの森」へ発展することになる「螢」や、「めくらやなぎと眠る女」の深みは圧巻である。特に内省的なこれらの作品で、村上は人間存在というものが宿命的に抱えこんでしまった欠損や過剰にコミットし続けることを宣言しているようにすら思われる。それは、そうした欠損や過剰こそが小説の動因であり、僕たちの日常生活をドライブして行くジェネレイターであると村上が看破したからに他ならないだろう。それ以外に書くべきことなど存在しない、どうしようもない欠損や過剰こそが僕たちの生を決定づけるのだという認識だけが、突き放されたようにここにある。 村上はそれをことさらに救おうとしない。なぜならそうした欠損や過剰は決して何ものによっても救われ得るようなものではないからだ。それが救われ得るとしたらそれはその欠損や過剰を抱えた本人がそれを赦すことによってでしかあり得ないのであり、小説家の仕事の本質はその欠損や過剰の形をできるだけリアルな形で僕たちの目の前に突きつけることにこそあり、小説家がそれを勝手に「救う」ことなど本来許されないことだからだ。そうした意味では「納屋を焼く」も、寓話的に語られる「踊る小人」も、僕たちがふだんやり過ごしている自分の中の欠損や過剰を突きつけてくる作品であり、村上の小説的世界観はこの頃既に一つの高みに達していたということができるだろう。 ■ 螢 長編「ノルウェイの森」の原型となった作品。「森」の第二章と第三章から永沢さんのエピソードを除いたものがほぼこの作品に相当する。「森」を読んでからもう一度この作品を読むと、「森」で語られる物語の大半が、この作品の中に既に含まれていることに気づくだろう。もちろんここには永沢さんもハツミさんもレイコさんも緑も出てはこない。しかし、そうした物語の中で語られるべき核は、既にこの短編の中に目に見えない胚のように潜んでいるのであり、おそらく村上はこの作品にあらかじめ胎生しているそうしたモメントの声を聞き、それらを解き放つことで「ノルウェイの森」という長編を書き上げたのではないかと僕は想像する。 ■ 納屋を焼く 小説全体がある種のメタファーとして成立している観念小説であり、作中にグラスを吸引する下りが出てくるのにちなめばドラッグ・ノベルと呼んでよいかもしれない。「納屋を焼く」という、それ自体意味のないセンテンスに重層的な意味合いを持たせ、その奥行きを読者に測らせる手法の鮮やかさは、村上の作家としての圧倒的な文章力、構成力を物語っている。 ■ 踊る小人 ダンスの上手な彼女を手に入れるために、かつて皇帝専属のダンサーだった小人に一夜だけ自分の身体を明け渡す「僕」の物語。小人は革命によって追われる身となるが、「僕」の夢に出てきて「僕」の身体を要求するのだ。「僕」は何とか自分の身体を守り抜くが、結局は革命軍から追われることになる。 ■ めくらやなぎと眠る女 仕事を辞め、東京から実家に帰っている「僕」が、親戚に頼まれ、耳の不自由ないとこに付き添い病院へ彼を連れて行くという物語である。ここにあるのもまた濃密な「死」の予感であり、移ろい、変わり行く物事の諸相への透徹した眼差しだ。人生というものを支配している圧倒的な不公平さへの明晰な認識だ。 ■ 三つのドイツ幻想 「1 冬の博物館としてのポルノグラフィー」、「2 ヘルマン・ゲーリング要塞1983」、「3 ヘルWの空中庭園」の3つの掌編からなる作品。「冬の博物館…」は、セックスから想像するものは冬の博物館だ、という一文に導かれる随想ふうの作品である。「ヘルマン・ゲーリング要塞」は東ベルリン観光でドイツ人の青年と知り合い、第二次世界大戦の戦跡を案内されるというエピソード。「空中庭園」は西ベルリンのビルの屋上に係留されたヘルWの空中庭園についての描写。どのような機会に発表されたものか承知していないが、ドイツにちなんだものという以外に共通項はなく(「博物館」はドイツにちなんでいるのかどうかすらはっきりしないが)、スケッチふうに読めばいいものではないかと思う。「博物館」はやや観念的で難解であるが、「要塞」と「空中庭園」は素直に楽しめる出来になっていると思う。 2004 Silverboy & Co. e-Mail address : silverboy@silverboy.com |