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8枚から14枚程度の掌編を18編集めた第二短編集(ただし最後に収録されている「図書館奇譚」のみその6回分)。これらはすべて雑誌「トレフル」に1981年から1983年にかけて連載されたものである。あとがきによればこの雑誌は「一般書店の店頭には出ない種類のもの」とされている。時期的には「羊をめぐる冒険」の前後に書かれたものということになり、「中国行きのスロウ・ボート」とほぼ同時期の作品と考えていいだろう。

上記のような発表時の事情もあってか、内容的にはリラックスしたスケッチふうのもの、実験的とまでは行かなくても試行的なものが多く、文学的な高みを目指したというような作品集ではないが、その分だけ村上春樹という作家の嗜好や資質がそのまま表れているようにも読めるし、それは今日に至るまで村上の作品の底流をなしているモメントなのかもしれない。

カンガルー日和

「僕」と「彼女」がカンガルーの赤ちゃんを見るために動物園へ出かけるというストーリー。会話文に村上独特のリズム感があり、エピソードとしてはコンパクトでかつ鮮明である。「カンガルー通信」(「中国行きのスロウ・ボート」所収)と一部リンクしているようでもある。

4月のある晴れた朝に100パーセントの女の子に出会うことについて

ポイントはもちろん「100パーセントの女の子」とは何かということだが、ストーリーはその核の部分を留保して語られるので、一種の観念小説的、実験小説的な趣がある。もっとも作品として明確な焦点を持ち何らかの「像」を結んでいるとは言い難いと思う。この作品をモチーフにした映画(「100パーセントの女の子」山川直人監督、1983年)が作られている。

眠い

これも「僕」と「彼女」の会話が特徴的な作品。つき合いで出た結婚式の最中に際限なく眠くなるというストーリーだが、「眠い」という状況をまるで一つの具体的なモノのように切り出し、手に取れるくらい鮮やかに描写して読者の手に「はい」と乗せてみせる、そういう村上の「書き手」としての資質がよく分かる。

タクシーに乗った吸血鬼

たまたま乗ったタクシーの運転手が実は吸血鬼だったという話である。「羊をめぐる冒険」に出てくる「先生」の運転手を思い起こさせる。「僕」と運転手の会話はなかなか気が利いていて、この少ない字数で運転手という人物の造形がきちんと提示されているところに非凡さを感じる。

彼女の街と、彼女の緬羊

東京在住の作家である「僕」が札幌で古い友達と会った後、ホテルの部屋のテレビで、ある町の広報課の女の子が町のPRをしているのを見るというストーリーである。タイトルからも分かるとおり「羊をめぐる冒険」のサイド・ストーリーもしくは習作と言っていいだろう。

あしか祭り

バーでとなりに座ったあしかにうっかり名刺を渡したばっかりに、後日あしかの訪問を受け長い演説を聴かされた上、寄付を余儀なくされたという話。寄付と引き替えにもらったステッカーに「メタファーとしてのあしか」と書かれていたというとおり、このあしかは新興宗教とか政治運動とかそういうものになぞらえてみてもいいし、もう少し抽象的に、僕たちの生活に無神経に踏み込んでくる、それでいて悪気のない何か、の話だと思ってもいいかもしれない。文句なく面白い。

怪談である。小学校の夜間警備のアルバイトをしていた語り手が、ある夜、壁に貼られた大きな鏡の前を通り過ぎようとすると、というストーリーだが、ここにあるのは村上の小説世界の大きなテーマの一つである「こちら側」と「あちら側」の対立であり、その結接点に「暗い氷山のような憎しみ」があるという描写が興味深い。一つの原型といえる作品。

1963/1982年のイパネマ娘

イパネマ娘についての、というよりは「イパネマ娘」という言葉から連想を展開させた観念小説あるいは随想。イパネマ娘は自ら言う、「だって私は形而上学的な女の子なんだもの」。

バート・バカラックはお好き?

「ペン・マスター」として様々な会員の手紙を添削するアルバイトについてのショート・ストーリー。アルバイトを辞めることになったとき、かつてハンバーグについての手紙を寄越してきた主婦に招待され、自宅を訪ねて手製のハンバーグをごちそうになるという話だが、ある限定された形での人間の交わりという村上の世界観が伺える気がする。秀逸である。

5月の海岸線

友人の結婚式のために「街」へ帰ってきた「僕」の独白。「街」とはいうまでもなく神戸のことであり(「山を切り崩して、ベルト・コンベアで運んだその土で海を埋めたんだよ」)、失われた海岸線についての描写は「羊」やさらには「ダンス」に通じて行くものである。神戸という街についての村上の個人的な思いが焼きつけられているようだと思う。

駄目になった王国

大学時代に少しばかり交流のあった「Q氏」と十年ほどしてからホテルのプールサイドで偶然出会うというストーリー。Q氏は「僕」の存在に気がついていない。エピソード自体はどうということもないが、タイトルと導入、結びだけで成り立っている作品。「立派な王国が色あせていくのは、二流の共和国が崩壊するときよりずっと物哀しい」。

32歳のデイトリッパー

18歳のガール・フレンドを持つ32歳の男、二人の会話を中心にしたテキスト。これも「イパネマ娘」と同様、一種の随想のような作品。

とんがり焼の盛衰

長い歴史を持つ名菓とんがり焼の新製品コンクールにたまたま応募した「僕」のストーリー。ただのナンセンス、スラップスティックとしても楽しめるが、ある種の象徴的なブラックユーモアとして読むこともできる。「とんがり鴉」は「世界の終り」に出てくる「やみくろ」を少しだけ思い起こさせる。

チーズ・ケーキのような形をした僕の貧乏

二本の線路にはさまれた三角形の土地の上の家に住んだ思い出を語る作品。実話かどうかはともかくとして、おそらくは村上自身の貧乏体験が下敷きになっているのではないだろうか。貧乏という言葉にリアリティを吹きこむ手際が鮮やかだ。

スパゲティーの年に

スパゲティーをゆで続けた1971年の挿話。スパゲティーを茹でていると知り合いのかつての恋人からその知り合いの消息を尋ねる電話がかかってくる。スパゲティーを茹でるという行為に村上は何か孤独でストイックなモメントを見出しているのかもしれない。「ねじまき鳥」の冒頭部分にもつながる作品である。

かいつぶり

新しい仕事のために長い廊下をたどり、出てきた相手と「合言葉」を巡ってやりとりするという一種の不条理小説。現実離れした長い廊下は「世界の終り」の冒頭を彷彿させる。これも村上作品の原風景の一つだろう。

サウスベイ・ストラット

ハードボイルド・ミステリーのパロディ。これも「世界の終り」の習作と読むべきだろうか。僕は、むしろ村上が個人的に愛好するチャンドラーなどのハードボイルドへのオマージュを捧げながら、その文体やスタイルを真似て見せた「お楽しみ」的な要素の方が強いのではないかと思う。

図書館奇譚

本編のみ6回連載。図書館で「オスマン・トルコ帝国の収税政策」に関する本の検索を頼んだばかりに地下の「閲覧室」に監禁され脳みそを吸われるハメになるというナンセンス・ファンタジー。「連続ものの活劇を読みたいという僕の家内の要望にこたえて書かれたもの」らしい。結局僕は美少女と羊男の力を借りて元の世界に戻ることができる訳だが、日常のすぐ隣りに異界があるという世界観は「ねじまき鳥」などにも通じるもので興味深い。



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