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村上春樹の第一短編集である。表題作を初めとする7編が収められている。作品の発表時期は80年4月から82年12月まで、ほぼ2年半にかけてであり、村上自身のノートによれば最初の4編が「ピンボール」の後に、残りの3編が「羊」の後に書かれたものということになっている。

読んでみると分かるが、最初の4編と残りの3編(中でも「午後の最後の芝生」と「土の中の彼女の小さな犬」の2編)の間には明確な断層がある。最初の4編がまだどこか未成熟で、生硬で、挑戦的で、試行錯誤的であるのに比べ、次の2編は明らかに小説的な成熟を遂げ、それ自体物語として十分な喚起力を備えるに至っている。おそらくは「羊」を書き上げることで村上の中には「語られるべき物語」のはっきりとした輪郭が見えるようになったのに違いない。

短編小説では、短い紙数の間にどれだけ物語の中心、核のようなものにまでまっすぐたどり着き、それを直にグリップするかということが常に問われている。そうした点で「芝生」と「犬」は既に短編小説の最も重要な要素を獲得しているし、その直接性はその後の長編小説へと結実して行く種類のものであったと言えるだろう。

中国行きのスロウ・ボート

「中国」あるいは「中国人」をテーマにした3つのエピソードから構成されている。それぞれのエピソードはどれも掘り下げが足りず、そのため読者に対する説得力が欠けている。導入と結びはことさらにもったいぶった言い回しが目につき、エピソードのひとつひとつとの有機的な連関がない。大したことのないテーマに無理矢理大きな意味を見出そうとするので結果として観念的に流れてしまい、物語全体をコントロールできていない。独特の文体に若き村上の潔癖な情熱とか力みのようなものを感じて微笑ましくはあるが、今日の目から見れば一つの作品としては高く買うことはできないと思う。

貧乏な叔母さんの話

これも肩に力の入った作品で、全体としての出来はやはりバランスが悪い。しかし、帽子を取られた女の子のエピソードは小説的輝きの原石のようなピリッとした存在感を放っているし、貧乏な叔母さんについて主人公が「それはいわばただのことばなんです」と言う場面は小説家としてメシを食おうとする一つの矜持のようなものさえ感じさせる。一種の観念小説であるが、エピソードの具体的な書き込みによってそれがまったくの絵空事になることからは救われている。ただ、それだけに導入と結びの不相応な大仰さが作品全体を損なっているのが惜しい。

ニューヨーク炭鉱の悲劇

雨の日に動物園に通うことを習慣にしている友人のエピソードと、その年に死んだ5人の友人についてのエピソードで構成される。「僕」は彼から黒い背広を借りてそれらの5つの葬儀に参列したのだ。会話文に村上独特のリズムのようなものがあり、文章としてはこなれた感じも受けるが、全体として物語の重心のようなものが見出し難く、やや散漫な感は否めない。タイトルはビー・ジーズの同名の曲から取られており、物語の最後に炭鉱に生き埋めになっている抗夫の短いエピソードが語られるが、本筋の物語との連関を示唆するには少々とってつけたようで収まりが悪い。

カンガルー通信

デパートの商品管理係が、苦情のハガキを送りつけてきた女性に宛ててカセットテープに吹き込んだメッセージ、という体裁をとった作品。しゃべり口調であり楽しくはあるが小説としては焦点が絞りきれていない感を否めない。「僕は同時にふたつの場所にいたいのです。これが僕の唯一の希望です。それ以外には何も望みません」。これが自己言及なのかどうかもはっきりしないが、独白者である商品管理係の造形が明確さを欠いているために、語られる内容そのものが便宜的にしか響いてこないのだと思う。

午後の最後の芝生

導入部分にもってまわった印象は残るものの、物語の輪郭は非常にはっきりしており、短い紙数の中である一つの像を読者の中に作り上げる小説的な力を備えた作品である。大学生の「僕」が恋人と別れることになりカネも要らなくなったため、長く続けた芝刈りのアルバイトを辞めることになり、最後の仕事に赴くというストーリーだが、物語の中心は「僕」が芝刈りのアルバイトと向かい合うやり方と、世界との距離感にあり、最後の仕事の注文主である大柄な女性の存在がそれを際だたせる。ここにあるのは濃密な死の匂いであり、すべてが静止した暫定的な世界で「今」を引き延ばし続けるような生きようの可能性を問う試みであると言ってよい。そしてそれは今日に至るまで村上作品の底流にあり続けているものだと思う。荒っぽい部分もあるものの、村上の短編の中でもベストに近い作品の一つではないだろうか。

土の中の彼女の小さな犬

季節はずれのリゾートホテルで一人雨に降りこめられているライターが、同じように時間を持て余している女性と出会い、彼女の奇妙な打ち明け話を聞くことになるというストーリー。主題は明らかで、彼女の可愛がっていた犬が死んだときに一緒に地中に埋めた預金通帳を、数年経ってから必要に迫られて掘り返すくだりがこの作品のハイライトである。着想は素晴らしいし、彼女がこのエピソードを語るシーンのテンションは恐ろしく高い。この前後のドライブ力という意味では村上の持つポテンシャルが既に十分示されている作品だと言うことができるだろう。ただ、そこに至るまでの筋立て、道具立てが少しばかり冗長に流れている憾みはある。僕たちの手に浸み込んでしまった宿命的な匂い、それはもちろん死の匂いに他ならないが、それが明瞭な形で示されたという意味で重要な作品だと思う。

シドニーのグリーン・ストリート

私立探偵の「僕」がピザ屋の女の子「ちゃーりー」と、羊男の耳の盗難事件を解決するというストーリー。子供向けのショート・ストーリーとして書かれたもののようである。羊男の耳を盗んだのは羊博士で、羊博士は本当は羊男になりたいために逆に羊男を憎んでいたということが明らかになる。羊男の耳は無事に取り返され…、という、まあ、一種の童話である。世界中には約三千人の羊男がいるらしい。



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