logo 短編集に未収の短編


ここに挙げるのは短編集に収められていない短編である。その中には講談社から刊行された「村上春樹全作品」に収められたものもあるが、村上春樹自身の意向で意図的に一切の再刊が行われていないものもある。初出または「全作品」の所収巻は分かる限りで記載しておくので、中には入手の困難なものもあるが興味のある人はどこかで探して手に取ってみるといいと思う。まあ、そこまでして読んでみるべき価値があるかは保証できないけど。

そういう訳なので、ここに挙げた作品相互の間には内容的な関連はない。発表時期も初期から最近のものまで様々だし、長さも異なる。ほとんど中編と呼んで差し支えないものからほんの数ページの掌編まで。こうやってこぼれ落ちたものを落ち穂拾いみたいに拾い集めるのもまた楽しい。

街と、その不確かな壁 「文学界」1980年9月号

「1973年のピンボール」が芥川賞候補になり、その受賞第一作として発表するために書かれたと言われる作品。中編と呼んでいい分量(70〜80枚程度)で内容的にもその後の作品につながる重要なものでありながら、文芸誌に掲載された後、短編集はもちろん全集にも収録されないままとなっている。
タイトルからも推測されるとおり、長編「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」を構成する二つのストーリー・ラインのうち「世界の終り」の原型をなす作品で、壁に囲まれた静かで密やかな街に迷いこんだ「僕」が、自分から切り離された「影」とともに街からの脱出を企てる物語である。
基本的な設定や世界観は「世界の終り」と通底しているが、ここでは「僕」は現実の世界で死んでしまった恋人によって示唆された「街」に自らの意志でやって来る。彼女にとっては現実の世界は「影の世界」であり、「街」こそ本当の自分が住む場所なのだと言う。僕は「影」を切り離すことによってその「街」に入り、予言者として古い夢を読む仕事を得る。
興味深いのはここで、「影ってのはつまりは弱くて暗い心なんだ」と明らかにされていることだ。壁に囲まれた街は暗い心を捨てた者の住む場所なのだ。すべてが終わった後の時間を限りなく引き延ばすことで静かな永遠を生きている街。ここには村上春樹の世界を見る眼差しが、「世界の終り」にも増してはっきりと映し出されているような気がする。
しかし、ここでは「世界の終り」と異なり、「僕」は「影」とともに「たまり」に飛び込み、現実の世界に帰還したことが示唆される。そしてそれによって壁に囲まれた「街」はひとつの解決を与えられ、「僕はかつてあの壁に囲まれた街を選び、そして結局はその街を捨てた」「僕は生き残り、こうして今文章を書きつづけている」という形で小説的に整理されてしまう。「僕」がたまりのほとりで「影」を見送り、そのために読者が回収されない当事者性を引き受けたまま物語を読み終わらざるを得ない「世界の終り」と比べて、最後の踏み込みが一歩足りない感は否めない。
表現上も「ことば」に関するプロローグとエピローグが不要に難解で生硬だ。第三作として単行本化された「羊をめぐる冒険」に比べて、初期二作の村上の文体のハードエッジな部分を純化する形で物語を推進しようとした形跡が見て取れる。僕は文学作品において「暗い」ことが間違ったことだとは思わないが、この作品では文体があまりに生真面目で息苦しく、陰鬱な雰囲気が全体を覆っていて、村上自身も必ずしもそれを意図した訳ではなかったのではないかと思うほど暗いと言うほかない。
したがって、村上がこの作品を自らの作品系からいわば切り捨て、それに代わるものとして「羊」を発表た後に、改めて「世界の終り」という形で壁に囲まれた「街」の物語を再生しようとしたのは無理からぬことだったと思う。
だが、それにも関わらず、本作はこのまま世の中から忘れ去られるには惜しい魅力を備えてもいる。それは、村上の、どうしてもこの物語を語りたいという強い意志がそこに隠しようもなく表れているからである。ある強固な物語の方法によってしか語られ得ないもの、実際にはあり得ないものを通してしか喚起され得ない感情がそこにあるということ、そしてそれが自分には語り得るのだという村上の初期衝動にも似た明確な意気込みがそこに密封されているからである。それは次の一節に明らかだ。
「僕はこれまでにあまりにも多くのものを埋めつづけてきた。
僕は羊を埋め、牛を埋め、冷蔵庫を埋め、スーパー・マーケットを埋め、ことばを埋めた。
僕はこれ以上もう何も埋めたくはない。
しかしそれでも僕は語りつづけねばならない。それがルールだ」
小説としてはいかにも試行錯誤的でありこなれない部分、いくぶん観念的に過ぎる部分はあるものの、村上春樹の小説世界を理解するためには重要な位置を占める作品であり、その拙さも含めて読むに値する小説である。この作品にきちんとしたアクセスが確保されることを望む。

鹿と神様と聖セシリア 「早稲田文学」1981年6月号

「早稲田文学」に発表されたまま、今日まで一切の単行本に収録されていない小品。「僕」は早稲田文学のために『森の生活・鹿の生活』という作品を書く。「主人公『私』が森の奥に住んで、冗談好きの鹿とつきあう話である」。
しかし、この作品はいつも「僕」が原稿を見せて感想を乞う友人から酷評を受け、「僕」はこの作品を引き出しの奥にしまいこむ。その、あるいは架空の作品の粗筋の紹介がこの作品の中核をなす。自己言及的な入れ子構造である。そして「彼女」が語る「聖セシリア」の挿話が付け加えられる。
随想的な、あるいは散文詩的な作品である。初期の村上春樹に特有な、知的にクールに突っ張った感じがあって微笑ましい。まあ、今さら敢えて単行本に収める訳にも行かない類の作品だろう。

パン屋襲撃 「全作品1979-1989(8)短編集III」

「早稲田文学」1981年10月号に発表された後、糸井重里との共作「夢で会いましょう」に『パン』という題名で収録された作品。この作品を受けてのちに、『パン屋再襲撃』という短編が書かれている(短編集「パン屋再襲撃」所収)。
「僕」と相棒は空腹のあまりパン屋を襲撃する計画を立てる。彼らは包丁を手にパン屋に赴く。だが、共産党員でワグナーを好むパン屋の主人は「金はいらないから好きなだけ食べりゃいい」と言う。
だが、「僕」たちは、他人の恵みを受ける訳には行かないとその申出を拒絶する。すると主人は交換条件を出す。「じゃあこうしよう。君たちは好きなだけパンを食べていい。そのかわりワシは君たちを呪ってやる。それでいいかな」。
相棒は「俺は呪われたくない」とそれも拒絶する。主人は次の条件を示す。ワグナーを好きになってくれたらパンをご馳走するというのだ。取引は成立する。「僕」と相棒はワグナーの「トリスタンとイゾルデ」を聴きながらパンを食べる。
ナンセンスでユーモラスな作品で、無理に意味を見出すまでもないと思うが、こういう作品をユーモアとして楽しめるか、それとも「何じゃこれ」と切り捨てるかでその人の村上春樹の受容のあり方が結構分かるような気がする。

BMWの窓ガラスの形をした純粋な意味での消耗についての考察 「IN★POCKET」1984年8月号

講談社から発行されている文庫版の月刊誌「IN★POCKET」に連載された「街の眺め」の第6回。この連載はすべて「回転木馬のデッド・ヒート」という短編集に収められたのだが、この作品だけはそこに収録されなかった。現在に至るまで、「全作品」も含めて一度も単行本化されておらず、入手の難しい作品のひとつである。
かつてカネを貸した友人に電話をかけ、呼び出して返済を迫るが、彼は言を左右にしてカネを返そうとしない、という話。「彼の父親は紹介のない患者はとらない予約制の歯科医で、母親の方はかなり名のとおった工芸デザイナーだった。(中略)彼はそれほど金に不自由することはないはずだったが、それでも彼は人の顔さえ見ればいつも金のことで文句ばっかり言っていた」。
そんな彼に「僕」はある日、新宿のデパートで偶然出会う。そして彼は世間に対する不満をひとしきり述べた後、案の定「僕」に3万円貸してくれと頼む。「僕」は借用書と引き換えにカネを貸す。
8年後、「僕」はその借用書を示して返済を迫る。「学べ! と僕は心の中で思った。もう遅すぎるかもしれないけれど、それでもお前は学ぶべきなんだ。自分の言ってきたこととやってきたことに対して、お前は何かしらの責任をとるべきなんだ。少なくとも数字としてあらわせるものだけでもだ」。
だが、彼は言う。「来月なら返せるよ。今月はいろいろと出費があったんだ」。彼はロレックスの腕時計を填め、BMWに乗っている。だが3万円(利息がついて6万円になっているがそれは彼が自ら借用書に記した利率だ)は返せない。
救いがたい傲岸さ、浅薄さに対する若き村上の純粋な怒りがストレートに表れた作品。村上がこれを単行本に収録しないのは、この作品が非常に暗く、ネガティブなトーンで貫かれており、そこに物語としての寛容さが欠けるからではないかと思う。だが、作品自体としては(どんな種類のものであれ)強い感情に裏づけられ、高い緊張感を孕んだものであり、力がある。苦労して手に入れるだけの価値はあると思う。

中断されたスチーム・アイロンの把手 「POST CARD」安西水丸・学生援護会

「村上朝日堂」などで村上春樹ファンにはおなじみのイラストレーター、安西水丸の1986年発表の著書に収録された作品。(1)と(2)の二部に分かれている。
駆け出しの詩人である「僕」が仕事場にしているマンションの外壁に「壁面芸術家」の渡辺昇が絵を描くという。やがて「僕」の部屋の窓の外には足場が組まれ、渡辺は助手の山口とともに絵を描き始めるが、彼らは作業をしながら猥歌を放歌高吟し、おならをしたり手鼻をかんだりし、ついには小便をまき散らす。「そして二人で大きな鼻くそを窓ガラスにはりつけて帰っていった」。思い余った「僕」は詩の依頼者である「鳩よ!」の編集部に窮境を訴える。という、まあ、ナンセンス・コメディのようなものである。
だが、果たして「鳩よ!」編集部の陰謀か、描画用の足場が崩れ、渡辺の絵は描きかけのまま中絶してしまう。それはアイロンの把手の部分であった。あろうことか「中断されたスチーム・アイロンの把手」は高い評価を受け、「僕」は再び騒動の渦中に引きずり込まれることになる。
渡辺昇というのは安西水丸の本名である。そして、「改めてじっくりと見ると、たしかにその絵は――渡辺昇という人間の破壊された人格を越えて――素晴らしいのだ」。安西の人格が「破壊」されているかどうかはともかく、これは村上の(幾分のユーモアと親しみをこめた)安西評なのかもしれない。あるいは純粋な意味での才能と人格の高潔さはまったく関連しないということなのだろうか。
「アイロンの把手」が評判になってからの騒動や、それが3週間もすれば潮が引くように忘れられてしまうさまについての描写が妙に迫真的だ。「鳩よ!」の編集部がワイルドなやり方で簡単にトラブルを解決してしまうところもいい。「大丈夫です。まかせて下さい。うちの会社はそういうの得意なんです。『ユリイカ』とは違いますから」。あと、「全長五メートルのスチーム・アイロンの把手の絵が描いてあるマンションを見落とす人間なんてスティービー・ワンダーくらいのものだ」なんてこと書いちゃっていいんだろうか。

雨の日の女#241・#242 「全作品1979-1989(3)短編集I」

「L'E」という雑誌に1987年に発表された作品。雨の日にひとりの女が訪ねてくる。「ごく当たり前の中年の女」で「#241」と番号の貼られた黒いアタッシェ・ケースと緑色のビニールの傘を持った化粧品のセールスウーマンだ。「僕」は玄関のチャイムに答えず彼女をやり過ごす。やがて彼女は帰ってしまう。
彼女が立ち去ってから、「僕は自分があの女にとりかえしのつかないような傷を与えてしまったような気になった」。僕は窓から通りを眺め、彼女がもう一度戻ってくるのを待つ。しかし彼女は二度と戻ってこない。緑色の傘も目にしない。やがて夜がやって来る。しかし、彼女は永遠に戻ってこない。
初期の長編のいくつかに通じるような森閑とした雨の午後のスケッチだ。白い蛇の夢のエピソードや高校の物理の教師のエピソード、あるいは行方不明になった若い女とその部屋から持ってきた腐ったリンゴのエピソード。何も始まらず、何も終わらない。こうした作品を滋養として村上春樹は長編を書くのかもしれない。
初期の作品に特有の「あの感じ」、人によってはそれを「喪失感」と呼んだり「デタッチメント」と呼んだりするのかもしれないが、僕としては「何か決定的なことが既に起こってしまった後のような感じ」が色濃くにじみ出ていると思う。

人喰い猫 「全作品1979-1989(8)短編集III」

村上自身の解題によれば、「トニー滝谷」と同時期に書かれたがどこにも発表されないままになっていた作品に大幅に手を入れ「全作品」に収録したもの。互いに家庭を持つ男女が惹かれ合い、必然的に家庭を破綻させた後で、二人でギリシャへ移り住むというストーリーである。
この作品は長編「スプートニクの恋人」の下敷きになっている。死んでしまった一人暮らしの老婆が飼い主を失って腹を減らした飼い猫に食べられてしまうという新聞記事、ギリシャの離島での生活、そしてある日消えてしまうパートナー、真夜中に山の上から聞こえてくるこの世のものならぬ音楽。
リアルなのは「僕」が日本での生活を清算し、身の回りの品物をスーツケースひとつにまとめてギリシャに向かう飛行機の中で激しい恐怖に襲われるシーン。「エジプトの上空を飛んでいるとき、僕は突然何処かの空港で自分のスーツケースが他人のスーツケースと間違えて持っていかれるのではないかという恐怖に襲われた」。
「そう考えると、僕は自分でも信じられないほどの深い恐怖に襲われた。もしそのスーツケースをなくしてしまったら、僕と僕の人生を結びつけるものなんてイズミの他にはもう何もないのだ」。「今そこにある便宜的な僕の肉体は壁土でできているみたいに感じられた」。
自分という存在を極限まで切りつめ、突き詰めたときにそこに残るものは他人の持ち物と容易に間違われてしまうスーツケースひとつに過ぎなかった。物語の終盤、彼女が姿を消してその恐怖は現実になる。「だってここにあるのはただの便宜的な僕にすぎないのだ。(中略)もし彼女がこのままいなくなってしまったら、僕の意識存在はもう帰るべき肉体も持たないのだ」。
死んだ後で飼い猫にその身体を食べられてしまった老婆のエピソードがここにおいて大きな意味を持つ。「三匹のしなやかな猫がマクベスの魔女みたいに僕の頭を取り囲んで、そのどろどろしたスープをすすっていた。彼らの粗い舌先が僕の意識の柔らかな襞をなめた。そのひとなめごとに僕の意識は陽炎のように揺らぎ、薄れていった」。
「失う」ということについての、「スプートニク」よりも遙かにハードエッジな作品である。

青が消える(Losing Blue) 「全作品1990-2000(1)短編集I」

セビリア万博の特集誌のために書かれ、英語、フランス語などで1992年に発表されたが、日本では2002年に「全作品」に収録されるまで未発表となっていた作品。ミレニアムの大晦日(つまりは1999年12月31日)に突然「青」が消えてしまうという話。
青いシャツは白いシャツになり、青い地下鉄は白い地下鉄になり、ハワイの青い海は白い広野になっていた。「そして僕以外の誰ひとりそれについてとくに心配もしていない」。慌てた「僕」は総理大臣になり代わって国民の質問に答えるコンピュータ・システムに「青が消えた」と訴える。コンピュータの答えが奮っている。「かたちのあるものは必ずなくなるのです、岡田さん」「明るい面に目を向けなさい。何かがひとつなくなったら、また新しいものをひとつ作ればいいじゃありませんか」。
もちろん「青」は単なるメタファーに過ぎない。だが、ではミレニアムの大晦日に消えてしまったものとはいったい何なのだろう。「新しいミレニアムがやってきたのだ。誰も消えた青のことなんか気にしてはいなかった」。
世紀末の喧騒の中で(あるいは高度資本主義社会の中で)「何か大切なもの」が人知れず消えて行くのにも気づかない人たち。そのような世の中のあり方を、ユーモラスに、しかし辛辣に、村上春樹は告発している。「でも青がないんだ、と僕は小さな声で言った。そしてそれは僕が好きな色だったのだ」と。

バースデイ・ガール 「バースデイ・ストーリーズ」村上春樹編訳・中央公論新社

2002年に発表されたアンソロジーのために書き下ろされた作品。このアンソロジーは、村上春樹が、レイモンド・カーヴァーやポール・セローなど、様々な海外の作家の誕生日にちなんだ短編を集め、翻訳したもので、本作は編者自身の作品として(あるいは村上自身によれば「おまけ」「蛇足」として)その最後に置かれたものである。
恋人と喧嘩別れし、20歳の誕生日をバイト先のイタリア料理店で過ごすことになった女の子が、その料理店のオーナーである老人から願いごとをひとつかなえてあげると言われる話。彼女がその時オーナーに何を願ったのかは最後まで明かされないし、それが実際にかなえられたのかも「イエスであり、ノオね」。それは「ものごとの成りゆきを最後まで見届け」なければ分からないことのようなのだ。彼女のその願いごとは「君のような年頃の女の子にしては、一風変わった願いのように思える」と老人は言う。
20歳の誕生日に彼女は何を願ったのか。そして、人は、20歳の誕生日に何を願うのか。それから10年以上経って、その願いごとをしたことを後悔していないかと問われた彼女は、「奥行きのない目を僕に向けている。ひからびた微笑みの影がその口もとに浮かんでいる。それは僕にひっそりとしたあきらめのようなものを感じさせる」。
もちろん、20歳の誕生日にたったひとつ何を願うかということは、その後の人生をいかに生きるかということと同義である。「人間というのは、何を望んだところで、どこまでいったところで、自分以外にはなれない」。この作品の語り手である「僕」と彼女の関係も含めて、いかようにも解釈や深読みは可能だが、答えはそれぞれの読者が胸に留めておいていいようにも思う。
僕はこの本をある人から誕生日のプレゼントにもらった。そして、その人から、作中の彼女の願いが何だったのか僕の考えを知りたいと言われた。さて、僕はその宿題に答えたのだっただろうか。

恋するザムザ 「恋しくて」村上春樹編訳・中央公論新社

「バースデイ・ストーリーズ」と同様、村上が編訳したアンソロジーの最後に1編だけ自作の短編を収録したもの。発表は2013年。
朝起きると自分がグレゴール・ザムザになっていることを知る男の話である。グレゴール・ザムザはフランツ・カフカの有名な短編「変身」の主人公であり、「変身」ではグレゴールはある朝目覚めると巨大な毒虫になっているという設定。
一方、この作品では明らかには示されないものの、もともとグレゴールではなく人間ですらなかった何か(おそらくは巨大な毒虫)がある朝気づくと突然グレゴール・ザムザになっているのであり、要は「変身」の裏返しである。村上はこれを「『変身』後日譚(のようなもの)」と説明している。
グレゴールは苦労してベッドから起き上がり、部屋から這い出して階段を下り、階下の食卓にあった4人分の食事をむさぼり食う。何とかガウンを見つけて身にまとう。そこへ錠前屋がやってくる。錠前屋はせむしの若い娘だ。彼女の所作を見ている間にグレゴールは勃起してしまう。
毒虫から人間になったばかりのグレゴールが世界を見る目は驚きに満ちている。そしてその偽りのない率直な視線は少しばかり世をすねたような錠前屋の娘の心をコツコツとたたく。彼女がグレゴールのことを次第に好ましく思い始めるのが分かる。
このアンソロジーのテーマは「恋愛小説」である以上、この作品もまた恋愛小説である。世界に新しく生まれたグレゴールはせむしの娘に恋をする。それは直感的なものではあるけれど、恋愛というのは所詮直感的なものなのだろう。
「恋するザムザ」というタイトルから広げて作ったという村上の説明を真に受けるなら、シリアスに実存を突き詰めるような重厚な作品というよりは楽しみながら書いたチャーミングな小品ということになるだろう。それでもそこに不思議とせつない情感を残しながら、恋愛の、ひとつのあり得べき形を読者に印象づける筆力は確かなものだ。



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