logo 騎士団長殺し


14作目の長編小説。サイズとしては三部構成の「1Q84」には及ばないものの、「海辺のカフカ」を上回り「ねじまき鳥クロニクル」3巻分とほぼ同じくらいの分量であり読みごたえのある長編である。

依頼を受けて肖像画を描くことを職業としている30代の男性「私」の一人称で物語は展開する。突然妻から離婚を求められた「私」は、家を出て、高名な日本画家である雨田具彦の、今は空家になっている小田原のアトリエに住まうことになる。「私」が天井裏に隠された「騎士団長殺し」と題する具彦の未発表の作品を見つけその封印を解いたことで奇妙なことが起こり始める。

この作品を読んでまず気がつくのは、過去の作品を思い出させるエピソードがこれでもかというくらい出てくることである。例えば妻から一方的に告げられる別離は「羊をめぐる冒険」や「ねじまき鳥クロニクル」をすぐに思い出させるし、人妻との情事は「1Q84」や「スプートニクの恋人」と共通している。

あるいは、物語の中で重要な役割を果たす秋川まりえという13歳の少女は「ダンス・ダンス・ダンス」のユキや「1Q84」のふかえりを思わせるし、「イデア」を名乗る騎士団長は「海辺のカフカ」のカーネル・サンダースと瓜二つだ。古い石造りの竪穴にもぐり壁を抜けるのは「ねじまき鳥クロニクル」そのものだし、真夜中に鈴の音がするのは「スプートニクの恋人」の山上で音楽が奏でられるシーンと同じだ。

さらには施設に入った瀕死の老人を見舞うシーンは「1Q84」や「ノルウェイの森」、騎士団長が自分を殺すことを「私」に求めるのは「海辺のカフカ」でジョニー・ウォーカーがナカタさんに刺されたシーンそのままだし、南京に入城した日本軍の兵士が中国人捕虜を処刑するところは「ねじまき鳥クロニクル」と酷似する。架空の通路を介して遠くにいる(しかし強く求める)女性と性交するのは「1Q84」や「海辺のカフカ」と同じ仕掛けだ。

まるでこれまでの作品の集大成のようにこうしたエピソードを気前よく盛りこんだことで、この作品は村上春樹の過去の作品と同じ地下水脈から汲み上げられた水だということが分かる。何度も繰り返し見る夢のように、そこにある景色は似ている。おそらくそれ自体がひとつの言語として、何らかの記号性を帯びている。しかし、そこで語られる物語はひとつひとつ個別のものである。

それでは、この作品で新たに語られた物語とは何だろうか。正直言って、この物語の焦点というか、中心にあっていろんなモメントを結びつけている結節点みたいなものを探すのは難しい。そこには確かにいくつかの硬質な手ごたえがある。そしてそれらはどこかで通底し、どこかで呼応し合っている。しかしひとたびその背後にあるもの、そこに隠された像のようなものに手を伸ばそうとすると、それは途端に曖昧な残像になってしまう。

それはおそらく、この物語の主人公である一人称の「私」という人物像が、僕の中でなかなか明確な像を結ばないことと関係がある。かつて村上が語った「僕」という一人称にははっきりとした貌や色、陰影があったが、ここに出てくる「私」には、読者である僕自身と響き合う部分が見つけにくい。あるいは僕自身が主人公である「私」よりずっと年上になってしまったからかもしれない。「私」の現実が僕にはリアリティのあるものに感じられないのだ。

それは決して、この物語が、深夜に鳴らされる鈴や身長60センチメートルの騎士団長や床に開いた入口につながるメタファーの国など、この世のものならぬ道具立てでできているからではない。そうしたものはこれまでも村上の作品には登場してきたし、それでもそこにはそうした道具立てを通じてしか語ることのできない真に迫った物語があった。それはこの作品でも変わることはない。

僕が「私」にリアリティを感じられないのは、「私」という人物の行動源泉、ひとつひとつの判断や行動の母体や規準となる、2010年代に生きる30代半ばの男性としての思考とか思想のようなものが、一貫性を持って、あるいは実感を伴って理解できないからだと思う。

かつての村上作品の主人公は、その年齢や境遇がいかに読み手である僕自身と異なっていても、あるいはそれが社会的な標準から外れた人物であっても、そこになにがしかの手に取れる実在感、僕自身と呼応するモメントがあったが、この作品では、そういう手がかりが希薄で、僕はどこからこの「私」の物語に入って行けばいいのか、その息を合わせるのが難しかった。

言いかえれば、このフェイク・ニュースやポスト・トゥルースの時代にあって、もはや処理不能な量の情報の中で空中戦のような日々のやり繰りをするしかない現代の情報密度や速度、そこにおいて不可避な疎外のあり方と、小田原の山の中で繰り広げられるこの物語のクローズドでたっぷりした感触との間に、同時代の物語としての決定的な「圧縮比」の違いがあるように感じられたということなのだと思う。

だが、ひとたびその違和感をバイパスして物語に入って行った時、強い印象を残すものは二つある。ひとつは免色渉という人物であり、もうひとつは「白いスバル・フォレスターの男」である。

免色は文字通り色のない男である。50代にして完全な白髪になり(「スプートニクの恋人」のミュウを思わせる)、山の上の豪邸で悠々自適の一人暮らしをしながら、谷の向こうの家に住む自分の娘かもしれない少女の家を高性能双眼鏡で窃視するストイックで有能でハンサムな男。

彼はいったい何者なのか。

「不思議な人物だと私は思った。愛想は決して悪くないし、とくに無口なわけでもない。しかし実際には彼は、自らについて何も語らなかったも同然だった」
「免色さん、もしよろしければ、あなたについてもう少しばかり情報をいただくことはできませんか? 考えてみれば、ぼくはあなたという人について、ほとんど何も知らないも同然なのです」

免色という名前は「色彩のない多崎つくると彼の巡礼の年」を思い出させる。免色は極めて自己抑制の強い人物として描かれる。しかしそこには人間として当然備えているべき弱さや迷いのようなものが欠けており、その中心に大きな空白を抱えているように思われる。その欠損や空白が自らを埋め合わせようとしてさまざまなものを吸い寄せるプロセスがこの物語のエンジンになっている。

「免色くん自身は別に邪悪な人間というわけではあらない。むしろひとより高い能力を持つ、まっとうな人物といってもよろしい。そこには高潔な部分さえうかがえなくはない。しかしそれと同時に、彼の心の中にはとくべつなスペースのようなものがあって、それが結果的に、普通ではないもの、危険なものを呼びこむ可能性を持っている。それが問題になる」

「私」もまたそのようにして免色の抱える空白に吸い寄せられたもののひとつである。そして、「私」には「白いスバル・フォレスターの男」が取り憑いている。妻に別れを告げられ東北地方を彷徨っている時に見かけた男。

「私がそばを通りかかったとき、男は顔を上げて私の顔を見た。その目は昨夜見たときよりずっと鋭く、冷たかった。そこには非難の色さえうかがえた。少なくとも私にはそう感じられた。
おまえがどこで何をしていたかおれにはちゃんとわかっているぞ、と彼は告げているようだった」

「私」は男の肖像画を描こうとする。「でもそこで私はひとつ、思いもよらない発見をすることになった。その絵は既に完成したのだ」。「これ以上なにも触るな、と男は画面の奥から私に語りかけていた。あるいは命じていた。このまま何ひとつ加えるんじゃない」。「それは私に何かを理解させようと努めていた。でもそれがどんなことなのか、私にはまだわからない」。

もちろん、「白いスバル・フォレスターの男」は「私」の、そして僕たちひとりひとりの中にある「悪しきもの」の似姿に過ぎない。

「『諸君は今ここで邪悪なる父を殺すのだ。邪悪なる父を殺し、その血を大地に吸わせるのだ』
邪悪なる父?
私にとって邪悪なる父とはいったい何だろう?
『諸君にとっての邪悪なる父とは誰か?』と騎士団長は私の心を読んで言った。『その男を諸君はさきほど見かけたはずだ。そうじゃないかね?』
私をこれ以上絵にするんじゃないとその男は言った」

「おまえがどこで何をしていたかおれにはちゃんとわかっているぞ、彼は私にそう告げていた。もちろん彼には何でもわかっている。なぜなら彼は私自身の中に存在しているのだから」

だからこそ「白いスバル・フォレスターの男」は「私」にその似姿を形にするなと要求したのだ。彼の似姿を形にすることは、「私自身の心の暗い深淵」を露わにすることに他ならないからだ。「私」は「顔なが」を追って迷いこんだメタファーの世界で暗く狭い横穴にもぐりこみ、恐怖と闘いながらそのことを知る。そして、死んだ妹の助けを借りてそこから生還する。進退窮まった「私」に妹は闇の中から言う、「風の音に耳を澄ませて」と。それは村上春樹が38年前、社会に対して最初に発したステートメントではなかったか。

そのことによってまりえもまた、免色の家から現実の世界に戻ることができた。何者かがまりえの隠れているクローゼットの前に立ち、今にもその扉を開けようとしながら、なぜか思いとどまって立ち去って行った。そのことと「私」が暗い穴を抜けて世界のこちら側に戻ってきたこととは確実に繋がっている。というか、「私」はそのためにこそ「私自身の心の暗い深淵」を覗きこまなくてはならなかったのだ。

「扉は開かれ、男は彼女の姿を目にするだろう。そして彼女はその男の姿を目にするだろう。それから何が起こるのか、彼女には分からない。見当もつかない。この男は免色ではないのかもしれない。そういう思いが一瞬彼女の頭に浮かんだ。じゃあそれは誰なのだ?」

「彼女は尋ねた。『さっきクローゼットの前にじっと立っていた人は、免色さんだったのですか』
『それは免色くんであると同時に、免色くんではないものだ』
『免色さん自身はそのことに気づいているのですか?』
『おそらく』と騎士団長は言った。『おそらくは。しかし彼にもそれはいかんともしがたいことであるのだ』」

騎士団長はまりえにこうも言う。「くれぐれも油断してはならないよ。ここはそんじょそこらの普通の場所ではあらないのだから。やっかいなものが徘徊しているのだから」。免色もまた、自分の内に「白いスバル・フォレスターの男」を抱えているのであり、それは「私」の内なる「白いスバル・フォレスターの男」とも、そしてもちろん、僕たちひとりひとりが抱える「白いスバル・フォレスターの男」とも通じ合っているのだ。

この作品では他にも、「私」と死別した妹とのエピソード、雨田具彦のオーストリア留学のエピソード、妻との別離と復縁、妻の妊娠を巡るエピソード、まりえの出生に関するエピソード、「私」を訪ねてくる人妻との情事のエピソード、そして「春雨物語」に書かれた「二世の縁」のエピソードなど、いくつもの、それぞれに印象的なストーリー・ラインが複雑に絡み合いながら、全体としてうねるように重層的な物語が形成されて行く。

しかし、「リトル・ピープル的なるもの」を媒介にサーガを志向し、全体小説、総合小説であろうとした「1Q84」とは異なり、この物語がアプローチしているのはあくまで個的な心の領域であり、その意味ではどこまでもミニマルな「私」の平面に降り立とうとする試みである。長尺ではあっても、あらゆるものを腑分けして行くことによって自分の中心にあるものを見極めようとする「個人小説」である。

「ねじまき鳥クロニクル」との相似を強く感じさせるが、この作品で問われる「個」の質感と僕自身との関わり、あるいは2010年代という「今」との同時代性については、まだまだ考えなければならないことが残されていそうだ。



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