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第11作目の長編だが、村上春樹の長編小説の中では初期の2作に次ぐ短さで、話法や文体、設定に実験的な色合いの濃い作品だと言っていいだろう。秋の終わりのある一夜、終電がなくなってから夜が明けるまでの渋谷の街での出来事を中心に、大きく三つのパートが並行して描かれる形になっている。

骨格をなすのは大学生である高橋と浅井マリを中心とする物語。二人は深夜の渋谷のファミリーレストランで何年ぶりかの再開を果たした後、近くのラブホテルで起こった中国人娼婦の殴打事件に巻き込まれる。ラブホテルの支配人である元女子プロレスラーのカオルらを交えたストーリーラインがこの作品のメインストリームと言っていいだろう。

第二のパートは中国人娼婦を殴打して行方をくらませたシステム・エンジニア、白川のストーリーである。白川は深夜のオフィスで一人システムをメンテナンスし、明け方にタクシーで自宅に帰り着く。そして、自宅の寝室で昏々と眠り続ける浅井エリ(マリの姉)の物語が第三のパートである。エリは部屋に置かれたテレビに映し出される別の部屋に人知れず運ばれ、そこから戻って来る。

この作品では「私たち」という主語で物語が語られて行く。作品自体は三人称の話法でありながら、そこに「私たち」という視点を導入することで、読者は物語と「読み手」である自分たちの関係を自問せざるを得ない。それは例えばテレビで真に迫ったドキュメンタリーを見ながらふと「それではこの絵を撮っているのはだれなんだろう」と考えるのに似ているかもしれない。

だが、この試みは、物語をつかさどる神の目の恣意性を明らかにし、小説という虚構における必然性の問題を提起する一方で、読者を少なからず戸惑わせる。この作品で「村上は変わった」「よく分からない」と感じる読者がいるとするなら、この話法の問題が大きく関与していることは間違いない。村上がこの作品で敢えてこのような文学的挑戦を行った意図は考える価値があるが、ここではそうした話法の「耳慣れなさ」に拘泥しないでひとまず物語を先へと読み進めるのが得策だと思う。

とはいえ、話法の問題を別にしてもこの物語は難解である。多くの謎が提示されたまま回収されず、読後感は必ずしもすっきりしない。いくつかの短編が複合した作品のような印象があり、物語の大きな部分は読者自身に委ねられている。例えば、浅井エリが眠っている間に紛れ込んでしまった部屋とはいったいどこなのか、その部屋にいた仮面の男はだれなのか。あるいは白川を突然襲った激しい暴力衝動は何だったのか、鏡に映ったマリや白川の像が、本人が立ち去った後も残っているのはなぜなのか。

この物語では、「夜」がまるで生命をもったひとつの生き物であるかのように描かれている。それが目を覚まし、動き始めるとき、僕たちの世界には昼間の光の下とは異なったルールが生まれ、僕たちが見慣れたのとは別の運動原理や別の動機にしたがって弾み車が動き始める。ここに描き出されるのはそうしたひとつの生物の息遣いであり、そこでは何が起こっても不思議ではない。それらはすべて、夜の間に起こったことなのだ。「真夜中には真夜中の時間の流れ方がある」。「終電車が出ちまってから、始発電車がやってくるまで、ここは昼間とはちょっと違う場所になる」。

だが、ただ一つ確かなのは、僕たちの世界のすぐ近くに、僕たちが見慣れない別の世界が息づいているということだ。そしてそれは、夜になると時として思わぬ場所にぽっかりと大きな口を開ける。「ある方面」から逃げているというコオロギはこう言う。「私らの立っている地面いうのはね、しっかりしてるように見えて、ちょっと何かがあったら、すとーんと下まで抜けてしまうもんやねん。それでいったん抜けてしもたら、もうおしまい、二度と元には戻れん。あとは、その下の方の薄暗い世界で一人で生きていくしかないねん」。その世界の成り立ちが何であるにせよ、それは僕たちの内なる夜と通じているし、村上春樹の作品でこれまでも繰り返し語られてきたものである。

それぞれの登場人物が抱える内なる夜も互いに通じている。浅井エリがベッドごと運ばれて行くテレビの中の部屋は、白川の仕事部屋に似ているし、そこには白川が使っていた鉛筆が落ちている。エリは「どこだかわからないけど、別の『アルファヴィル』みたいなところにいて、誰かから意味のない暴力を受けている。そして無言の悲鳴を上げ、見えない血を流している」。中国人の娼婦に理不尽な暴力をふるう白川の内なる夜と、昏々と眠り続けるエリの内なる夜とは確かにつながっているし、それは白川に殴打された中国人の少女娼婦を通じてマリの内なる夜にもつながっているのだろう。

エリの抱える闇、葛藤そのものは間接的に語られるだけだ。「自分の中で何かが起こっていることに、気づいてもいないんだ」。エリがそのように自分を損なって行った結果、たどり着いた場所は、夜の奥深くだった。エリは何ごともなかったようにそこから元の部屋に戻ってくるが、物語はエリがそこで夜と「交わった」ことを示唆する。エリがそこで何を失い、何を得たのか、エリがそこで汚されたのか、浄化されたのか、それは説明されない。しかし、戻ってきたエリがもはや以前のエリと同じであり得ないことは自明であるように思われる。

ここでは他の作品にも増して「答え」は語られず、ただ、闇の中でモソモソと身じろぎする「夜」の存在だけが生々しく不気味な印象を残して行く。高橋とマリは半年後の再開を約束し、浅井エリは目覚めの予兆を示す。しかし、それは、僕たちの世界がいつでもそのような夜の存在と隣り合わせなのだということ、あるいは、僕たちはそのような夜の息遣いが間近に聞こえる場所でこそ朝の訪れを切実に求めるのだということのささやかな暗示に過ぎないようにも見える。「夜はようやく明けたばかりだ。次の闇が訪れるまでに、まだ時間はある」とこの小説は結ばれる。しかし、もちろん、次の闇は確実にまたやってくる。

村上の長編の中では異色の手触りを持つ作品だが、そこで語られる物語にはしっかりとした手ごたえがあり、ふだん僕たちが見ずにすませようとしているものの姿をくっきりと焼きつけて行く力がある。難解ではあるがむしろ繰り返して読むべき作品かもしれない。



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