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第十作目の長編小説。「ねじまき鳥クロニクル」に次ぐ枚数の大作であり、「ねじまき鳥」でひとつの達成をみた村上が、さらに新たな地平を目指して踏み出した作品だということができるだろう。

物語は二つのパートに別れて進行する。奇数章では、15歳になったばかりの「僕」が中野区の家を出て、一人で四国に向かい、高松の私立図書館の片隅で暮らすようになる。少年はその図書館で大島さん、佐伯さんといった人物と出会いながら、自分の中の空白を埋めるために深い森の奥へと踏みこんで行く。

偶数章ではナカタさんと星野青年の物語が進行して行く。かつて識字能力を影の半分とともに失ったナカタさんは、少年の後を追うように中野区から四国へ向かう。星野青年の助けを得ながらナカタさんは次第に少年の足跡に近づく。そして最後に二つの物語は交錯することになる。

この作品に特徴的なのは、いくつもの声が聞こえてくることだ。初期から中期の村上に特徴的だった直喩を多用した翻訳調の話法は影をひそめ、登場人物たちの語り口がじかに読者に響いてくる。だから村上作品の抑制的なひそやかさ、静けさを愛してきた読者にとってはこの作品は少しばかり騒々しく、うるさく感じられるかもしれない。だが、いろんな声が口々に語りかけてくる物語の相互作用、重なりや衝突はこの作品の本質なモメントのひとつである。僕たちはまずそれを受け容れなければならない。

もちろんその中でも主旋律を奏でるのはカフカ少年の物語である。少年は父親を殺し母と姉と交わることになるという呪いを受け、自分が絶えず損なわれそうになる場所から逃れるために家を出る。しかしそれでも少年は夢の中で父親を殺し、母としての佐伯さんと交わり、姉としてのさくらを犯す。少年の手は血で汚れている。そこでは現実と夢の間に確かな境目はなく、人は自分の想像力に対して責任を負わなければならない。「僕がなにを想像するかは、この世界にあってはおそらくとても大事なことなんだ」。

カフカ少年は佐伯さんの失われた時間をなぞるように時間と空間を往復する。少年は佐伯さんの仮説的な息子でありながら、同時にその死んでしまった恋人である。

「『ねえ知ってる? ずっと前に私はこれとまったく同じことをしていたわ。まったく同じ場所で』
『知ってるよ』と君は言う。
『どうして知っているの?』と佐伯さんは言う。そして君の顔を見る。
『僕はそのときそこにいたから』」

カフカ少年の物語は「僕」という一人称で語られるが、時としてそれは「君」という二人称に入れ替わる。それはカフカ少年の背後にあるもう一つの視点の示唆であり、そこで時間と空間が交錯していることの現れである。そのとき少年は少年であって少年でなく、僕たちは二つの時間を同時に体験する。

「『私たちはみんな夢を見ているんだわ』と佐伯さんは言う。
みんな夢を見ている。
『あなたはどうして死んでしまったの?』
『死なないわけにいかなかったんだ』と君は言う」

村上の作品に共通するモチーフである「もう一つの世界」はこの作品でも大きなテーマである。少年は森を抜けて山に囲まれた盆地にある異界に足を踏みこむ。星野青年が渾身の力をふるって「入り口の石」をひっくり返し、その世界の入口を開けたのだ。かつてその入口が開いたときにナカタさんは「向こう側の世界」に識字能力と影の半分を置き去りにした。佐伯さんもまた自らその石を開き、その「報い」を受けた。その世界がどこにあり、何であるにせよ、それは一人ひとりの人間の力を超えた圧倒的なものであり、ときとしてそれは人のあり方を不可逆的に損なって行くのだ。

だが、ここで重要なことは、その世界が決して邪悪なものではないということだ。むしろそれは僕たちの世界のすぐ隣りに寄り添って存在し、その写し絵のように僕たちの世界と連関することで、僕たちの世界の成り立ちを背後から支えているのだと言うことができるだろう。それは森の奥にあると同時に僕たちの想像力の中にある。夜の闇の暗さ、森の深さは、僕たちの中にある闇や森と呼応している。それらは最も深いところでつながっていて、その間に本質的な違いは何もない。

「ここにある森は結局のところ、僕自身の一部なんじゃないか――僕はあるときからそういう見かたをするようになる。僕は自分自身の内側を旅しているのだ。(中略)僕がこうして目にしているのは僕自身の内側であり、威嚇のように見えるのは、僕の心の中にある恐怖のこだまなんだ。そこに張られた蜘蛛の巣は僕の心が張った蜘蛛の巣だし、頭上で鳴く鳥たちは僕自身が育んだ鳥たちなんだ」

少年はそのようにして森の奥にある異界にたどり着き、そこで、死んでしまった佐伯さんと会う。そしてまたそこで15歳の佐伯さんとも会う。自分の中の忘れられた記憶と邂逅するような息苦しく、懐かしく、締めつけられるような感覚。そうした描写によって僕たちの中の何かが動かされるのだとしたら、そこにはそのような異界の存在を通してしか語られ得ない真実や経験され得ない感情がある。ここに文学の文学としての価値、フィクションの意義があるのだ。

ここで語られるサブ・ストーリーもそれぞれに豊穣である。例えばナカタさんの猫探しの挿話。星野青年が「大公トリオ」を聴いて涙する挿話。たくさんの声が重層的に僕たちに語りかけるひとつひとつの物語。それらはこの作品がカフカ少年の単なる成長譚に堕することを回避し、この作品の総合小説的な奥行きを裏打ちしている。中でも圧巻はナカタさんがジョニー・ウォーカーを殺す下りである。残酷な猫殺しのシーンでもあることから抵抗は強いが、ジョニー・ウォーカーはこの小説が小説として成立する上で書かせない存在である。

ここでのジョニー・ウォーカーは間違いなく「悪」というもののひとつの形として描かれている。しかし、ジョニー・ウォーカー自らが言うように、この世界で何が「悪」かということは必ずしも自明ではない。オートマチックな善性、悪性というものの安易な措定を超えた地平から語られるジョニー・ウォーカーの言葉はむしろこの物語の中のどの断定よりも説得的である。それもまたこの作品の広がりを保障するひとつの大きなモメントだ。

「こいつはね、善とか悪とか、情とか憎しみとか、そういう世俗の規準を超えたところにある笛なんだ。(中略)私はここに集めた笛を使って、もっと大きな笛をひとつこしらえようと思っているんだ。(中略)それだけでひとつのシステムになってしまうような特大級の笛だ。(中略)その笛が果たして結果的に善となるか悪となるか、そいつを決定するのは私じゃない。(中略)私がいつどこの場所にいるかによって、それは違ってくるわけだ」

だからこそそいつを抹殺するには「圧倒的な偏見」が必要なのだ。なにもかもが相対的な場所にあってオートマチックな善性や悪性に依拠することができないとすれば、僕たちができるのは自分の圧倒的な偏見を貫徹することでしかない。そう、「ありとあらゆる種類の言葉を知って 何も言えなくなるなんてそんなバカなあやまちはしないのさ」とだれかも歌ったとおり。

ただ、この作品を通じて僕が残念なのは、少年が森を抜けて向こうの世界にたどり着きながら、そこから佐伯さんのひとことで簡単に「こちら側」へ戻ってきてしまうことである。「あちら側」というのはそんなに簡単に行ったり来たりすることのできる場所なのだろうか。カフカ少年は佐伯さんの言葉の何に打たれ、なぜ戻ることにしたのだろうか。その過程に対する書きこみは明らかに不足しており、物語の終盤の流れには結末へ行き着こうとする便宜的な性急さが払拭できない。

「『じゃあ佐伯さんはそこに戻った僕にいったいなにを求めているんですか?』
『私があなたに求めていることはたったひとつ』と佐伯さんは言う。そして顔をあげ、僕の目をまっすぐに見る。『あなたに私のことを覚えていてほしいの。あなたさえ私のことを覚えていてくれれば、ほかのすべての人に忘れられたってかまわない』」

「僕」がこちら側の世界に戻るべき理由の説明はそれだけだ。「記憶」。「それは場合によってはなによりも大事なものになるのよ」と佐伯さんは言う。それは佐伯さんと「僕」が海辺で過ごした時間によって裏づけられている。波が打ち寄せ、陸と海が接する境界の場所で。しかしそれにも関わらず、それがカフカ少年の心をたたき、その結果彼の中の何かが動かされたことのしるしのようなものが僕には見えない。それがこの作品を読んで僕が感じたほとんど唯一の充たされなさである。

これは重層的で多義的な物語だ。人の心の中で何が生まれ、人の想像力の中で何が起こるかということの長大な物語だ。ここで織りなされるいくつものエピソードは、その荒唐無稽さにもかかわらず僕たちの心に訴えかけ、そこにリアルな感情を喚起する。村上春樹がそれまでの文体の親密さを取り払い、新しい語りで物語をドライブすることの試みを始めたエポックメイキングな作品として記憶されるべき力作である。



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