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村上春樹の長編第九作である。大作であった「ねじまき鳥クロニクル」を経て、ややコンパクトな500枚強の作品となった。物語はシンプルだ。「ぼく」の友達であるすみれがギリシャの小さな島で行方不明になる。そして物語の最後に帰ってくる。それだけだ。

だがもちろんそこにはテーマがある。「ふたつの異なった世界だ、としばらくあとでふと思った。それが、すみれの書いたふたつの『文書』に共通している要素だ」。すみれをギリシャに連れ出した美しい中年の女性ミュウの不思議なエピソードがそれを端的に語っている。観覧車に閉じこめられた夜を境にミュウはふたつに分裂し、黒い髪と性欲を持ったミュウの半身は「あちら側」の世界に行ってしまって、こちら側には抜け殻のような半分だけのミュウが残ったのだと説明される。

姿を消したすみれはあちら側の世界に行ったのだと「ぼく」は考える。「それでいろんなことの説明はつく。鏡を抜けて、すみれはあちら側に行ってしまったのだ。おそらくあちら側のミュウに会いに行ったのだ。こちら側のミュウが彼女を受け入れることができない以上、それはむしろ当然の成り行きではないか?」。結局、「羊」や「世界の終り」の頃から特徴的に見られる「あちら側の世界」、彼岸と此岸との交通の過程がこの小説でも大きなモチーフとなっていることは間違いがない。

この物語でさらに象徴的なのは、「血を流す」ことへの言及だ。町の入り口の門に犬の生き血をかけることによって、その呪術的な力で町を守ろうとした人々についての中国の昔話を引き合いに出して「ぼく」はすみれに説明する。「物語というのはある意味ではこの世のものではないんだ。本当の物語にはこっち側とあっち側を結びつけるための、呪術的な洗礼が必要とされる」。つまりそこでは「温かい血が流されなくてはならない」。

それは何を意味するのか。それは、優れた物語を読むことによって僕たちは束の間「あちら側」の世界に足を踏みこむことになるのだし、そのような優れた物語を紡ぎ出すためには書き手もまたやはり「あちら側」の世界に深くコミットし、こちら側の世界から眺めるだけでは手にできない力を得るために、その禍々しい世界の深奥へ分け入って行かなければならないということだ。

そしてそれはそのまま僕たちの生そのものへの眼差しに重なる。僕たちが何らかの意味で生きるに値する生を生きようとするのなら、僕たち自身もまたあちら側の世界に足を踏み入れ、そこに息づくものの存在を感じなければならない。だからこそこの物語はこう結ばれなければならなかった。「それからぼくは指をひろげ、両方の手のひらをじっと眺める。ぼくはそこに血のあとを探す。でも血のあとはない。血の匂いもなく、こわばりもない。それはもうたぶんどこかにすでに、静かにしみこんでしまったのだ」。

ところで、気になるのは物語の最後に挿入されている「にんじん」の万引きのエピソードだ。すみれとミュウと「ぼく」の物語の最後に唐突に現れるこの異質なサブ・ストーリーは何を意味しているのだろう。その答えはおそらくここにある。「ぼくが手を差し出すと、にんじんはそっとその手を取った。ぼくは手のひらの中ににんじんの小さなほっそりとした手の感触を感じた。それはずっと昔にどこかで――どこだろう――経験したことのある感触だった。ぼくはその手を握ったまま、彼の家まで歩いた」。

にんじんが万引きしたスーパーの保安室を出た「ぼく」は、にんじんと二人で喫茶店に入り、そこで長い独白をする。「ぼく」は自分の生い立ちについて、本を読むということについて、一人で生きるということについて、そして総体としては結局すみれという存在が自分にとって何でありその失踪によって何が失われてしまったのかということについて、小学四年生の子供に切々と語りかけるのだ。

ふだんはおとなしく成績もいいのに習癖的に万引きを繰り返してしまう「謎の領域」を心の奥に秘めた子供、それは「ぼく」にとって一種の触媒のようなものであったに違いない。「ぼく」はにんじんを通して自分の過去に触れ、そこにあった確かな世界の感触を自分の中に蘇らせ、そしておそらく「ぼく」はこのとき既に癒されているのだ。

「すべてのものごとはおそらく、どこか遠くの場所で前もってひそかに失われているのかもしれないとぼくは思った。少なくともかさなり合うひとつの姿として、それらは失われるべき静かな場所を持っているのだ。ぼくらは生きながら、細い糸をたぐりよせるようにそれらの合致をひとつひとつ発見していくだけのことなのだ。ぼくは目を閉じて、そこにあった美しいものの姿をひとつでも多く思い出そうとした。それをぼくの手の中にとどめようとした。たとえそれが束の間の命しかたもてないものであったとしても」

だとすればこの物語の最後ですみれが帰ってくることは本当は必要なかったのかもしれない。少なくとも僕にはそれはよけいなつけ足し、端的にいえば蛇足のようにすら思えた。にんじんのエピソードで物語は明確に終わっており、このような「ぼく」の認識こそ僕たちが果てしない日常の中で抱きしめて行くべきものなのだ。



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