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「ダンス・ダンス・ダンス」によって初期作品の系譜に一応の区切りをつけた村上春樹が新たな小説世界に踏み出した作品。「羊」から「ダンス」までの4作がいずれも上下2巻の大作であったのに比べれば短く感じられるが、この作品も500枚を超す長編である。

「ノルウェイの森」のことを「恋愛小説」だと思った人たちにとってはこの作品は間違いなく「不倫小説」だろう。ジャズ・バーを経営する「僕」の前にかつて幼い思いを寄せた女性が現れて、という筋立てはそれ自体として読めば紛れもなく、中年の男が結婚生活と愛人との間で苦しむ道ならぬ恋の物語だからだ。だが、「森」が「恋愛小説」でなかったように、これもまた「不倫小説」ではない。あるいは「ただの不倫小説」ではないというべきか。

「僕」にとって運命的な女性である「島本さん」についての描写は物語の最初の20ページほど、「僕」が中学に入ったところで終わってしまう。この物語の最も美しく、最も生き生きとした部分はそこまでだ。全体の分量からいえば一割にも満たないエピソードで、しかし、村上は島本さんが「僕」にとってどれほど重要で切実な存在かを語りきってしまうのだ。そしてその後の物語は結局「僕」が島本さんを失った後いかに果てしない後退戦を戦ったか、いかに島本さんのいない「残りの人生」を生きねばならなかったかという一種の後日譚に過ぎないと言っていいくらいなのだ。

「そのようにして、僕の足はだんだん島本さんのところから遠のくようになり、そのうちに会いに行くことをやめてしまった。でもそれはおそらく(中略)間違ったことだった。僕はそのあともしっかりと島本さんと結びついているべきだったのだ。僕は彼女を必要としていたし、彼女だってたぶん僕を必要としていた。でも僕の自意識はあまりにも強く、あまりにも傷つくことを恐れていた」。そうして「僕」は島本さんを失い、あてどなく茫漠とした人生を灯台を失った船のように漂流することになるのだ。

その後、大人になった「僕」は島本さんと不思議な再会をする。島本さんはたくさんの謎を抱えている。村上作品の大きなモチーフである彼岸と此岸、あちら側の世界とこちら側の世界という対立がここにもあり、島本さんはまるであちら側の世界から束の間「僕」に会うためにやってきた使者のように見える。不自由だった彼女の足すら今は治っているのだ。

「『さっきも言ったように、私には中間というものが存在しないのよ。私の中には中間的なものは存在しないし、中間的なものが存在しないところには、中間もまた存在しないの。だからあなたは私を全部取るか、それとも私を取らないか、そのどちらかしかないの。それが基本的な原則なの』」と島本さんは言う。

しかし、島本さんがいったいどんな世界に属していてどんな生活をしているのか、そんなことはこの小説を読む上ではどうでもいいことだ。いや、「僕」が再会を果たした島本さんが本当に島本さんなのか、実体のある現世の存在なのか、そんなことすらどうでもいい、どちらでもいいことなのだ。重要なのは「僕」にとって島本さんとは何なのかということであり、「僕」はなぜ島本さんに運命的に引かれてしまうのかということでしかあり得ない。

「『僕は君のことを愛している。それはたしかだ。僕が君に対して抱いている感情は、他のなにものをもってしても代えられないものなんだ』と僕は言った。『それは特別なものであり、もう二度と失うわけにはいかないものなんだ。僕はこれまでに何度か君の姿を見失ってきた。でもそれはやってはいけないことだったんだ。間違ったことだった。僕は君の姿を見失うべきではなかった。この何ヵ月かのあいだに、僕にはそれがよくわかったんだ。僕は本当に君を愛しているし、君のいない生活に僕はもう耐えることができない。もうどこにも行って欲しくない』」

僕の考えを端的に言ってしまえば、島本さんは「僕」の少年期の憧憬であり悔恨なのだ。不確かで寄る辺のなかった未成熟な時期に本来生きられるべきであった美しくまぶしい生への果てしない憧憬であり、その通り生きられなかったことへの取り返しのつかない悔恨なのだ。そのようなものとして島本さんの存在を考えるとき、「僕」が社会的な成功を収めて初めて島本さんが姿を現した意味、「僕」がまだ自分のありようを見定められなかった時期にはその後ろ姿を見かけながらも結局彼女に追いつくことができなかった意味が分かるような気がする。

自分を「取る」のか「取らない」のか、「そう言ったとき、島本さんは僕の命を求めていた。僕は今、それを理解することができた。僕が最終的な結論を出していたように、彼女もやはり最終的な結論を出していたのだ。どうしてそれがわからなかったのだろう。たぶん彼女は、僕と一晩抱き合ったあと、帰りの高速道路でBMWのハンドルを切って、二人で死んでしまうつもりだったのだ」。少年期の憧憬や悔恨、生きられなかった自分のもう一つの生に回帰するということは、とりもなおさず自分の今現在の生を放棄するということに他ならない。だからこそ島本さんは僕の命そのものを求めずにはいられなかったのだ。

「僕」が島本さんを「取る」と決めていたにもかかわらず、島本さんは一人姿を消してしまった。そして「僕」はいったん死んでしまった自分を抱えながら残された抜け殻のような人生を生きるべき宿命を背負うことになる。だが、そもそもそのような憧憬と悔恨を抱えない生などどこにあるだろうか。僕たちは一瞬ごとに自分の生を選択しながら生きているのであり、それはつまり僕たちが、選ばれなかった無数の生を慈しみ、焼けつくような痛みで振り返りながらしか生きることができないということだ。島本さんを失ってからの「僕」の生が、その社会的な成功にもかかわらずある種の後退戦だとするなら、僕たちの生は最初から宿命的な後退戦でしかあり得ないということなのだ。

物語の最後、海に降る雨のことを考えながらテーブルで顔を覆う「僕」の背中にだれかがそっと手を置く。そこになにがしかの「再生への希望」のようなものを読みとることは可能だ。しかし、「『ユミヨシさん、朝だ』」と結ばれた「ダンス」から比べれば、それは余りに苦々しく、痛みに満ちたラストシーンに見える。そしてそれは僕たちの生が、そのように苦々しく、痛みに満ちたものであることの単純な写像に過ぎないのだと僕は思う。



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