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「風の歌を聴け」、「1973年のピンボール」、「羊をめぐる冒険」と続いた初期三部作の完結編である。「羊」ですべてを失った「僕」はその場所から再びささやかな自分なりの生活を築き上げている。しかしいるかホテルでだれかが「僕」を呼んでいる。だれかが「僕」のために泣いている。「僕」は再びすべてを投げ出して札幌へ向かう。美しい耳のガールフレンドはここではキキという名前を与えられて物語の鍵となっている。羊男も出てくる。だが物語をドライブして行くのは五反田君、ユキ、アメ、牧村拓、ディック・ノース、そしてホテルのフロント係のユミヨシさんといった新しい登場人物たちだ。

だが、達者な話法で物語をぐいぐいと牽引していた「世界の終り」や「ノルウェイの森」に比べると、いや、「羊」と比べてさえ、この小説は混乱している。致命的なまでに混乱している。そこには伝統的な意味での「物語」すらない。「僕」はただ右往左往するだけだ。札幌、東京、赤坂署、辻堂、ハワイ、箱根、そして再び札幌へ。何も始まらないし何も終わらない。人は死に続け「僕」はただ踊り続けるだけだ。羊男に教えられたとおり。

「『わかるよ』と僕は言った。『それで僕はいったいどうすればいいんだろう?』
『踊るんだよ』羊男は言った。『音楽の鳴っている間はとにかく踊り続けるんだ。おいらの言ってることはわかるかい? 踊るんだ。踊り続けるんだ。なぜ踊るかなんて考えちゃいけない。意味なんてことは考えちゃいけない。意味なんてもともとないんだ』」。

今にして思えばこの作品が発表された1988年はバブル経済の真っ最中だった。高度成長によって達成された都市化が一気に爛熟した時期だ。高度資本主義がダイナミックな価値観の組み替えを強引に押し進め、「そういう世界では、哲学はどんどん経営理論に似ていった」。そのような場所で「僕」は何一つ主体的に選び取ることができない。ただ踊り続けるだけだ。僕はいろんなものとの繋がりを失い、混乱している。羊男だけがいるかホテルの一室で配電盤のように「僕」をいろんなものと繋ごうと絶望的な試みを続けている。「踊り続けるんだ」と羊男は言う。

「ノルウェイの森」で表明された、下劣で無神経な世界に対する違和感、怒りはここでさらにラジカルに語られている。だが、興味深いのは、村上が決してそうした世界に背を向けようとしないことだ。「踊り続ける」とはそうした高度資本主義社会の中で生き延びるということに他ならない。そこでの運動法則を見極めること。それがどんなに下らない、無意味なものに見えてもそのルールに合わせてダンスを続けること。そうしてこのハードな世界を生き抜くことこそ、むしろ自分の美意識を守るための必要条件であると村上は看破したのではないだろうか。

もちろんそれはこの世界を赦し、受け容れるということではない。いや、もはやそれはだれかが赦したり受け容れたりするような類のものですらないのだ。それはそういうものとしてそこにあるのだ。村上はただ、それがそこにあるということを認めているに過ぎない。そうして、それがどれほど困難なことだとしても、この場所で生き延びることを選ぶのだ、それ以外に僕たちに選べるものなどないのだというのがこの小説の主題ではないかと僕は考える。

「羊をめぐる冒険」で「鼠」の代理人だった羊男はここでは「僕」のために存在する。羊男のいる世界は広くて、暗い。そしてそこは「僕」のための世界だ。そこは「死の世界」ではないと羊男は言う。しかしそこは現実ではない「そちらの世界」だ。「こちらの世界」とは違う、僕のために用意された彼岸なのだ。そこには羊男がいてキキがいる。最後にキキは「僕」の夢に現れてこう言い残す。「『あなたを呼んでいたのはあなた自身なのよ。私はあなた自身の投影に過ぎないのよ。私を通してあなた自身があなたを呼び、あなたを導いていたのよ』」と。

では、キキや羊男がいる「そちらの世界」とは、「僕」の中にある心の闇のようなものだろうか。僕たちの世界の隣にある「もう一つの世界」というモチーフは、「羊」で示唆され「世界の終り」で明確に提示された。そしてそれはこの後「ねじまき鳥クロニクル」でも「スプートニクの恋人」でも「海辺のカフカ」でも繰り返し語られることになる。それはある時はここではないどこかだったり、別の時には自分の無意識の核だったりするが、それはおそらく重要なことではない。なぜなら心の闇と夜の闇は直接つながっているからであり、インナースペースとアウタースペースは本質的に同じものだからである。

大事なのは僕たちが当たり前だと思っている「現実」のすぐ近くで、禍々しくおどろおどろしい、そして甘く哀しい「もう一つの世界」がひそかに息づいているということだ。そうした世界と「現実」とを往復しながら、それでも「こちらの世界」に何とか自分の足場を見定めようとする心の動き、それが先に書いた「踊り続ける」、つまり「生き延びる」ということの意味に他ならないのだと思う。

この小説は混乱している。だが結論は明快だ。「現実だ、と僕は思った。僕はここにとどまるのだ」。それはおそらく村上春樹の小説の中でたった一度だけ書かれた、苦々しくも強い決意だ。僕が最も好きな作品である。



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