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村上春樹の名前を一躍有名にした大ヒット作。大学に入ったばかりの「僕」は自殺した親友キズキの恋人直子と偶然出会う。週末ごとにデートを重ね「僕」は次第に直子にひかれて行くが、直子は心を深く病んでいた。同級生の緑、学生寮で奇妙な友情を交わす永沢さん、その恋人ハツミさん、そして京都の山奥の療養施設で直子の面倒を見るレイコさん、村上作品の中では例がないほど現実的、写実的なタッチで描かれた「普通の恋愛小説」である。

だが「普通」というのはもちろんこの小説に羊男ややみくろが出てこないというだけの意味に過ぎない。そこで展開される小説世界はまったく「普通」ではないし、厳密に言えばこれは「恋愛小説」ですらない。ここで語られているのはむしろ「恋愛」とは正反対の「死」のことである。これほど「死」の濃厚な影が全体を覆っている作品は他にないくらいだ。物語のトーンは陰鬱で寒々しい。村上春樹は執拗に、憑かれたように「死」について語り、死者の声を媒介する。この作品ではこれまでになく性描写が多いが、それすらも生の喜びを謳歌するというよりは「死」の影から必死で逃れようとする登場人物たちのあがきのように思えてならないのだ。

「死は生の対極としてではなく、その一部として存在している」というのが主人公である「僕」の基本的な認識だ。そしてそれはこの物語を貫く最大のテーマでもある。僕たちはみんな毎日少しずつ死に続けているのだ。そのような、死が必然的に生の一部であるような世界で生き続けるとはどういうことだろう。「俺はこれまでできることなら十七や十八のままでいたいと思っていた。でも今はそうは思わない。俺はもう十代の少年じゃないんだよ。俺は責任というものを感じるんだ。なあキズキ、俺はもうお前と一緒にいた頃の俺じゃないんだよ。俺はもう二十歳になったんだよ。そして俺は生き続けるための代償をきちっと払わなきゃならないんだよ」。

だが「僕」は結局直子の病んだ心を癒すことができなかった。直子はある夏の日、森の奥で首を吊って死んでしまう。「僕」の一部はさらに深く死者の世界にひきずりこまれることになる。「死」を自らの生の一部として宿命的に抱えながら、それでも生きようとすることの意味はどこにあるのだろうか。「どのような真理をもってしても愛するものを亡くした哀しみを癒すことはできないのだ。どのような真理も、どのような誠実さも、どのような強さも、どのような優しさも、その哀しみを癒すことはできないのだ。我々はその哀しみを哀しみ抜いて、そこから何かを学びとることしかできないし、そしてその学びとった何かも、次にやってくる予期せぬ哀しみに対しては何の役にも立たないのだ」。

結局のところ、これは死者の世界からの絶え間ない呼び声と、それに耐えてこの場所にとどまり生き続けるという決意とのせめぎ合いの物語に他ならない。「お前とちがって俺は生きると決めたし、それも俺なりにきちんと生きると決めたんだ。お前だってきっと辛かっただろうけど、俺だって辛いんだ」。直子が死んで行く一方で、まさにその直子の死ゆえに、レイコさんは療養施設から出て新しく生きようと決意する。終盤、「僕」が施設を出て上京したレイコさんと交わらねばならなかったのは、その「生」への意思をともに裏づける必要があったからだ。確かに死は生の一部として避け難くそこに存在する。しかし逆に言えば生もまた死を含みながらそこに存在している。たとえそれが絶望的な消耗戦、後退戦であれ、生き続けようとする限り僕たちは死の呼び声と抗い続けない訳には行かない。

だが、そうした陰鬱で重いテーマにも関わらず、この小説は決して苦々しい読後感を残さない。むしろ、その分だけ生への希求が強く印象づけられるように僕には思える。それは緑という登場人物が象徴する「生」の力ゆえだろう。彼女の存在がこの小説に血を通わせていると言っても過言ではない。あるいは(突撃隊を除けば)この小説で唯一の救いかもしれない。本来であれば極限まで息苦しいはずのテーマを、そして小説的には決して波瀾万丈とはいえない物語を、ここまでドライブして読ませてしまう村上春樹の語り部としての力量は前作「世界の終り」を経てさらに成熟していると言っていい。

興味深いのは「僕」が学生運動のインチキさに異議申し立てをするくだりだ。大学解体を叫んでバリストを指導した学生たちが、機動隊にストを叩きつぶされたあと臆面もなく講義に出てきたのを嗤う場面である。他人のありようをあからさまに批判することの少ない村上作品にあって、この部分の指弾のしかたは明らかに異質だと僕には思える。ここでの苛立ち、怒りは、文章上は「風向きひとつで大声を出したり小さくなったり」する下劣な連中に向けられているが、結局のところそれは世界を埋め尽くすそのような下劣さ、無神経さに対する村上自身の違和感の表明であり、そうしたものが傷つけ、損ない、置き去りにしたものの側に立って闘い続けるという村上の闘争宣言なのではないかと思う。

また、レイコさんとレズビアンの少女との挿話も示唆的だ。どこにも行き着かない純粋な「悪意」や「病い」のようなものが日常のどこかにぽっかり口を開けているというイメージはこの後の作品にもつながって行く重要なモチーフである。単にだれかを傷つけるためだけの悪意、そしてそのような無意味な行為を通してしか自己を確認できない病んだ魂の存在、この後村上によって繰り返し語られることになる不条理なまでの暴力の本質についての最初の言及かもしれない。

寓話的な筋立てや空想的な登場人物、幻想的な仕掛けを駆使しながらリアルな物語を紡いで行く村上春樹の物語世界の系譜にあって、その意味では異質な作品であるが、それだけに村上の世界観、死生観がむしろストレートに表れているとも読める。僕はこの小説を初めて読んだとき泣かなかった。泣いてすませてしまうことのできない哀しみがこの世界にはあるということをこの小説で知ったからだ。



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