logo 世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド


初めて「僕」と「鼠」の世界を離れて書き下ろされた長編第4作。計算士という架空の職業を営む「私」が天才老博士に振り回されて地底を旅する「ハードボイルド・ワンダーランド」と、高い壁に囲まれた世界で「影」を奪われた「僕」が古い夢を読みながら脱出を試みる「世界の終り」という二つの物語が交互に進行して行くというユニークな構造になっている。

二つの物語の関係は終盤に至ってようやく明らかにされる訳だが、ほとんどスラップスティックといっていいほど活劇的な「ハードボイルド・ワンダーランド」と、森閑としてひそやかな「世界の終り」の対比は見事という他ない。そしてそれらがすべて一点に向かって収束して行く小説的手法の確かさ、鮮やかさは、前作「羊をめぐる冒険」からの連続性に立ちながらも、ここでひとつの完成を見たと言っていいほど既に確立されている。村上春樹の小説世界の中核をなす寓話的な非現実世界のプロトタイプとなる作品であり、彼岸と此岸という基本構造が最も明確な形で現れた原点でもある。

「世界の終り」は「ハードボイルド・ワンダーランド」の「私」が自分の頭の中に作り上げた無意識の世界だった。それを博士が人為的に固定し、もはや何者もその世界を変えることができないようにしてしまったのだ。そこは永遠の時間の中に閉じこめられた世界であり、人々は心を持たずただ単純な毎日の繰り返しの中に安らぎを見出して暮らしている。心を持たなければそこにややこしい欲望やいさかいも起こらなくなって安らかに暮らせるはずだという考え方は村上作品に特徴的だ。村上春樹の小説の主人公たちは多かれ少なかれそうした閉じた輪のような「完全な」世界にひかれる傾向を持っていると思うし、おそらくは村上自身にも騒々しく無神経な「現世」よりはそうした静寂に支配された世界の方を慈しむ部分があるように僕には思える。

そして、村上春樹の小説を好む人たちの多くもまたそうした「自分だけの完全な世界」に閉じこもろうとする精神的な偏向があるのではないだろうか。だが、実際のところ村上がここで強く書こうとしているのはむしろ逆のことだ。

「『しかし戦いや憎しみや欲望がないということはつまりその逆のものがないということでもある。それは喜びであり、至福であり、愛情だ。絶望があり幻滅があり哀しみがあればこそ、そこに喜びが生まれるんだ。絶望のない至福なんてものはどこにもない』」と「影」は「僕」に諭し、「私」は老博士にこう訴える。「『でも、変な話かもしれないけど、僕はこの世界にそれなりに満足してもいたんです。どうしてかは分からない。(中略)でもとにかく僕はこの世界にいた方が落ちつくんです。僕は世の中に存在する数多くのものを嫌い、そちらの方でも僕を嫌っているみたいだけど、中には気に入っているものもあるし、気に入っているものはとても気に入っているんです。向うが僕のことを気に入っているかどうかには関係なくです。僕はそういう風にして生きているんです。どこにも行きたくない。不死もいりません』」と。

心をなくすことによって得られる平安は結局死者の平安に他ならないし、それに憧れることは死に接近することである。この小説は、そうした死の影に強くひかれながらもこの世界に踏みとどまり、些細なことで笑ったり泣いたり腹を立てたりしながら毎日をやりくりして行くしかない僕たちの運命への深い省察の物語なのだ。

物語の最後で「私」は意識を失い自分で作り上げた「世界の終り」へと回帰して行く。一方「世界の終り」では「僕」が「影」を外の世界に逃がし、心を残したままその完全な世界で永遠の生を生きる決意を固める。「僕」はその壁に囲まれた「完全な」世界が自分自身の作り出したものだということに気づいたのだ。「『でも僕は自分がやったことの責任を果たさなくちゃならないんだ。ここは僕自身の世界なんだ。壁は僕自身を囲む壁で、川は僕自身の中を流れる川で、煙は僕自身を焼く煙なんだ』」。

自らの心を高い壁で囲む者は、その壁の中で心の疼きや震えに呻吟しなければならない。それは即ちこの騒々しく無神経な世界で自分のスタイル、自分の美意識を頑なに守りながら生きようとする者が強いられる代償のことに他ならないだろう。それでも僕たちはこの世界が生きるに値するところだということを確認するために小説を読むのだとしたら、「僕自身を焼く煙」というこの「僕」の認識はすべての村上春樹読者が胸に刻まなければならない十字架のようなものなのかもしれない。

それにしてもこの小説の、小説的なドライブ力はどうだ。計算士と記号士の対立、天才博士による突拍子もない実験、一角獣、そして何より地底世界と「やみくろ」、そんな荒唐無稽でおよそリアリズムとは最も遠い地平にあるとしか思えない寓話的な道具立てを使いながら、この物語が僕たちの心の深いところにぐいぐいと迫ってくるそのリアルな喚起力、リアルな推進力はどうだ。ピンクの服を着た太った少女、図書館の女の子、二人組のギャング、レゲエ好きのタクシー運転手といった登場人物の造形の見事さはどうだ。この小説は、「ピンボール」での助走、「羊」での離陸から、村上春樹の作品が大空へとダイナミックな飛翔を始めた初期の代表作であるといっていい。小説を読まない人にまでその名前が知られるようになるには次作「ノルウェイの森」を待たなければならなかったが、作品世界としての豊穣さは既にこの作品で十分に開花していたと言えよう。



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