logo つまらない大人にはなりたくない


『ガラスのジェネレーション』を『つまらない大人にはなりたくない』と改題し、リアレンジしてギター・ドリヴンのロック・チューンに仕立て直した佐野元春が「再定義」したかったこととはいったいなんだろうか。

僕にとって「つまらない大人になりたくない」というフレーズはいつでも、自分が誠実に、真摯に自分の生を生きてきたかどうかを省みる物差しであり、避けて通れない問いかけであった。『ガラスのジェネレーション』を聴くたび、そのポップな曲調のなかに、この曲を通して自分が佐野とかわした誓約のことを思わずにはいられなかった。

佐野がこの曲をまさに『つまらない大人にはなりたくない』と改題して再定義したこととはなにか。それは今、五十代も終わりに近い僕たちが、それでもまだ「つまらない大人になりたくない」という誓約を放棄していないかという問いかけに他ならないのではないかと僕は思う。

つまらない大人にならないことは僕が考えていた以上に難しかった。自らの手を汚さず、清らかに、正しいことだけを言って暮らして行くのは至難の業だった。正義と悪が対立するのではなく、いくつもの正義が乱立する世界で、自分の正義をあくまで貫くことはしばしば不誠実であり、非寛容であり、独善であり、むしろ大事なものを裏切ったり失ったりすることにすらなった。他人を切りつける正論はめぐりめぐって自分に返ってきた。

そんな場所で「つまらない大人」にならないことは容易なことではなかった。自分が「つまらない大人」になっていないかどうかすら僕にはわからなかった。「もしかしたらオレはつまらない大人になってしまったのではないか」。知らず知らずのうちに、僕は手を汚し、弱いものを足蹴にし、だれかを傷つけ、損い、何かにおもねり、許すべきでないものを受け容れ、自分自身をすら偽って、それでようやくここまでなんとか生き延びてきたのではないか。

それでも僕は『ガラスのジェネレーション』を聴き続けたし、佐野に合わせて「つまらない大人にはなりたくない」と歌い続けた。それは誓約であるよりは最後に残された希望であった。それは願いであった。それは「汚れた手にこそ赦しあれ」という祈りであり、手を汚しながらもなんとか踏みとどまろうとする意志への祝福の希求であった。「つまらない大人にはなりたくない」。それは切実な渇望であった。

佐野はそれを敢えて問いかけた。かつて僕たちが大人になるということの意味も知らずに無責任に言い放った「つまらない大人にはなりたくない」というスローガンに、僕たちは血を吐く思いで落とし前をつけてきたのか。責任をとってきたのか。そこにまだ祈るに値する最後の誠実さ、真摯さはあるのか。佐野が再定義したのは、この不確かな世界で僕たちがなにをよりどころにして善く生きるかということであり、そこにまだ古い誓約があるのなら、今こそそれを更新しよう、ホコリを払って新たに定義しなおそうということなのだ。

これは、どこかの音楽評論家が書いているような、「『つまらない大人に、ついにならなかったぞ』という勝利宣言」などではないと僕は思う。僕たちの生には勝利も敗北もない。つまらない大人になったかならなかったか、そんなことは最後までわからないのだし、わからないからこそ僕たちはこの歌を歌い続けなければならないのではないか。ここにあるのは答えではなく、再定義なのだから。



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