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ありがとう、と君に言えるのが嬉しい。

少し距離を置いて椅子に腰かけている二人の佐野元春。普段着の佐野元春が光るボールを投げると、それはきれいな弧を描いてスーツを着たもう一人の佐野元春の手にすっぽりと収まる。にこやかに拍手をする普段着の佐野元春。ナレーション「スターダスト・キッズ、佐野元春」。1982年に発表されたシングル「スターダスト・キッズ」のテレビCMだ。

この曲で佐野元春はこう歌っていた。「本当の真実がつかめるまで続けるんだ」。それは輝かしい青春のマニフェストであり、それから始まる長い闘いの宣戦布告であった。僕たちは「真実」を求めていた。そしてそれはすぐそこにあるように思われた。

ところが僕たちはその実体を長い間つかむことができなかった。それはいつでもすぐそこにあるように見えながら、近づくと消えてしまう逃げ水のように、決して僕たちの手に入ることはなかった。僕たちは「真実」を追いかけ続けた。僕たちはデッドヒートを繰り返し、何度かそれを確かにつかみ取ったような気さえしたが、よく見るとそれはただの石ころに過ぎなかったりした。

僕たちはなぜ真実をつかむことができなかったのか。今なら僕にはその理由が分かる。

「佐野は、あるいは僕たちはそれを手にすることができない。なぜなら僕たちは本質的に不完全で有限な存在に過ぎないからだ。『真実』は時折さまざまなものの形を借りて僕たちの前に一瞬だけその姿を見せるかもしれない。僕たちはその残像のようなものを目にし、その残像や記憶を頼りに生きて行こうとするだろう。そのありかを探し、確かなものを手にしたいと願うだろう。だがそれは所詮虚しい営為でしかあり得ない。本質的に不完全で有限な僕たちが確かな『真実』を手にできるということ、それはそもそも語義矛盾であり、もしそれが可能であると考えるのだとすれば、それは傲慢な錯覚に他ならないのだ」

これは僕が以前に書いた文章の一部だ。そこで僕は、僕たちが真実をつかめない理由をこんなふうに説明した。そしてその考えは今も変わっていない。だけど、この文章はこう続いて行く。

「佐野はもちろんそのことに自覚的だ。自覚的でありながら、それでも『真実』の残像に目を凝らしてそのありかを見定めようとする佐野の視線にこそ僕たちは信頼してきたのだ」

新しいシングル「イノセント」。そのビデオでは、年輩のカップルが、若い女性が、光るボールを嬉しそうに手にとっていると言う。その話を聞いたとき、僕は「スターダスト・キッズ」のことを思わずにはいられなかった。そしてその歌の中で佐野はこう歌っている。「君がただひとつの真実」と。

ここで佐野が「君」と呼んでいるのはだれのことだろう。ファン、スタッフ、あるいは家族、パートナー、友達…。僕は思う。佐野が「君」と呼んだのは、そうした彼を取り囲む有機的な「関係」すべてのことなのだと。「真実」は何か特別な「もの」ではない。それは僕や君自身の中、あるいは僕たちの周りにあって、僕たちの現在を肯定するようなものごとの「ありよう」そのもののことだ。そうであってみれば、僕たちはそれを探しにどこか遠くへ出かける必要はない。なぜなら「真実はただ風に吹かれている」からだ。僕たちがするべきなのは、ただそれを見出すこと、「真実」に対する眼差しを獲得することだけなのだ。

「真実」をそのようなものとして考えるとき、佐野元春がこの歌の名宛人として呼びかけている「君」は、そうした「真実」のありかとしての「世界」に他ならない。佐野は世界の総体としての「君」に、「ありがとうと言えることが嬉しい」と歌っているのだ。それは世界をそのままに受け入れることができる喜びなのだ。

佐野がこの歌を瑞々しいビートに乗せて歌うとき、僕たちは世界が僕たちに開かれるのを見る。長い闘いの末に、何かを楽観することの強さ、何かを信じることの意味を知る。「ありがとう」。身も蓋もない感謝の言葉。だけど照れている場合ではない。闘いはまだまだ続いて行くのであり、僕たちはまだ決して真実を手にした訳ではないからだ。真実はただ風に吹かれている。だけどそれは僕たちのものではなく、僕たちはその残像を追い続けて行く。どこまでも、時を越えて。

ありがとう、と君に言えるのが嬉しい。



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