logo 恋する男


だれかを愛するということはとてもロマンチックで楽しいことだけど、同時にとてもリアルで苦しいことでもある。

だれかを愛することで僕たちは自分と向かい合う。だれかを愛している自分という存在のことを考える。なぜならだれかを愛するということは自分を愛するということとほとんど同じ意味であり、それは自分という水面に映っただれかの姿を確かめようとすることに他ならないからだ。

だからだれかを愛するということは本質的に錯覚でしかあり得ない。自分が作り上げただれかの写像ができる限り正確なものであって欲しいと願いながら、僕たちはその写像を愛する。しかし、そこには自分自身という不安定な契機が不可避的に内在している。だれかの姿をニュートラルに写し取ることなんてだれにもできないのだ。僕たちは僕たちの心が作り上げただれかの写像を愛する。それをその本人に限りなく似せることはできるが、僕たちの中の写像がその本人そのものであることはできない。

このことはさまざまな悲喜劇の原因になる。裏切られたとか傷ついたとか、そんなことで泣いたり笑ったりするのも、自分の中のだれかの写像とその本人の実像が一致しないからだ。そしてそんなものはどのみち一致しないものだという認識が僕たちに欠けているからだ。僕たちはいつの間にか自分の中に作り上げられた愛する人の写像を実像と取り違えてしまい、実像がそれに合わないと裏切られたと感じるようなのだ。

だからだれかを愛するということは、だれかを愛していると自分という存在を見つめることに他ならない。自分がなぜその人にひかれるのか、その意味を自分に問い、それを自分に対して明らかにしようと試みることだ。そうすることで僕たちは自分自身という未知の存在を知ることができるし、愛するだれかが結局自分自身の中にしか存在しないのだということに気づくことができる。その過程は時として身を切るように痛く、辛い。なぜならそれは今まで意識しなかった自分の深層をのぞき込むことだから、そして、そこにある自分では認めたくない自分の弱さや打算、甘えや古傷を目の当たりにすることだから。

そのような過程の中で人はリアルになる。そして、そうした自分の存在そのものを受け止め、それでもそのだれかに惹かれる自分自身を肯定できたとき、初めて僕たちはだれかを愛していると言葉にすることができるはずなのだ。そうやって試され、確かめられた愛は強く、しなやかだろう。

愛が君をリアルにして行く

君が僕の思った通りの君でなくても構わない。なぜなら、だれかを愛するということは、そんな写像と実像のズレを受け入れるということに他ならないから。



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