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ヨーロッパで生活していると、ある単純なことに気づく。それは僕はここにいるよ、と声に出して言わなければだれも振り向いてくれないということ。手を振り回し、顔を真っ赤にして主張しなければ何も分かってもらえないということ。黙っていてもだれかが何とかしてくれるなんて、そんな都合のいい思いこみはここでは通用しない。

自分の存在を訴えるということは、つまり自分が何者であるかを知るということである。何が欲しいのかということをきちんと自分で分かっているということである。だれも僕の欲しいものを推し量ってくれたりはしない。これが欲しいんでしょ、なんて頼みもしないのに何かを持ってきてくれる「親切」なんてここにはない。

自分の欲望を自分で理解し、自分で主張する。そのことにはもちろんリスクが伴う。自分の欲したものが自分の思ったとおりのものではなくても、その責任をだれかに問うことはもはやできない。だけど、だれも僕のことを気にかけてくれているのでない以上、そういう場所で異邦人として生きている以上、僕は自分でそのリスクを取り、自分の欲望と自分の存在に対して自分で責任を持つしかない。ここでは僕はただのマイノリティ、ただのしょぼくれた東洋人に過ぎないのだ。だれかが僕のために万全に取りはからってくれないことを非難しているような余裕はないのだ。

だが、それは言葉によるコミュニケーションが万能であるということを意味しない。むしろ、言葉によるコミュニケーションほど不自由なものはないと言った方がいいだろう。ここに住む人たちがことさらに自己主張にこだわるのは、むしろ言葉によるコミュニケーションが不自由で不完全なツールだからなのだ。だからこそ彼らは過剰なくらい繰り返し自分の考えを説明しようとする。些細なことでもきちんと言葉にして確かめようとする。それは彼らが言葉というものを信用していないことの表れに他ならない。彼らはコミュニケーションの不全を常に怖れているのだ。

ひとりひとりが異なった考えを持つ異なった人間であるという認識からスタートするなら、そこではコミュニケーションの自動性を楽観的に前提することなんてできるはずもない。それはヨーロッパにいても日本にいても本質的には同じなのだが、ヨーロッパでは異邦人としての自分を自覚する契機がある分、コミュニケーションというものに対して意識的にならざるを得ないということなんだろう。それに対して日本では社会の同質性が高いために、コミュニケーションというものが決して自動的に成立するのではないということが見えにくくなってだけのことなのだ。

愛をこめて コミュニケーション・ブレイクダウン
このとりとめもない状況を 歩き続けていこう

我々のコミュニケーションが危機に瀕しているというとき、それは必ずしもコミュニケーションそのものが壊れかけているということではない。だってコミュニケーションなんて初めから不完全なものでしかあり得ないのだから。むしろ問題は、人間どうしが意志を疎通させ合うためにはきちんとそれなりの時間と手間をかけなければならないということが、我々の社会ではうまく理解されてこなかったということなのだ。そんな簡単な事実にようやくみんな気がつき始めているというだけのことなんだろうなと僕は思っている。我々の本当の意味でのコミュニケーションはこれから始まるのかもしれない。



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