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僕の天使でいて欲しい、と言うことはたやすいけれど、今夜は僕が君の天使でいるよ、と歌うことはなかなかできそうもない、僕には。

僕は周りの人から「冷たい男」と思われているらしい。確かに僕は子供の頃から感情を表現するのが苦手だったし、今でも自分のむき出しの感情をだれかに見せたいとは思わない。もちろん社会生活を営むのに必要な人づきあいはできているし、友達だっているけれど、僕はいつだって自分と自分以外の世界との間に明確な一線を引いてきたような気がする。そしてそこから中にはだれも立ち入らせない、僕だけの領域をいつも大切に抱えてきた。

その背景にはいくつかの複雑な感情がある。例えば僕の考えていることなんてだれにも分かるはずがないという思い上がりもその一つだろう。だが、そんな思い上がりを別にしても、自分の感情をだれかと分け合うなんて初めから不可能だという諦観は僕の中の深いところに常にある。だれかに自分をさらけ出して弱みを見せ、だれかと一緒に泣くことで何かを分かり合い、分け合ったような気になっても、それは所詮互いの自己満足に過ぎないのだと僕は思っている。

それから、そうやって自分をさらけ出して弱みを見せること自体が、自分に対して許せないとも思う。僕の弱さは僕自身のものであり、どこまでも僕一人で背負って行くべきものだと思うからだ。仮にそれを分け合うことのできるだれかがそばにいたとしても、それに頼ることは自分の弱さに負けることだという強い思いが僕にはある。

いずれにしても、僕はそのようにして少しずつ自分だけの領域を作り上げてきた。そして、そのことはむしろ僕を外に向かわせた。僕は自分がそのようにして社会からデタッチしがちな人間であるということを知っているが故に、強い社会性を要求される保守的な大企業に就職したし、そこでうまくやって行くことを自分に課し続けてきた。自分の弱さを自分の問題として引き受けながら、それを言い訳にしないでまともな社会生活を送ることは僕にとって常に重要なテーマだった。僕はそのようにして自分を鼓舞し続けてきたのだ。

もちろん、それは過剰な自意識のなせる技だったろう。僕はきっとだれよりも強く自分のことを愛しているに違いない。だから僕はそんなふうに一人になりたがるのだろう。そして、だからこそ僕は、無条件に寄り添うことのできるだれかを人一倍必要としているのかもしれない。

「果てしない哀しみを 君の前じゃ とても隠しきれない」と佐野元春は歌う。そして、だから「今夜は僕が君の天使でいるよ」と。

僕はだれかと一緒に泣きたいとは思わない。だれかに僕の哀しみを引き受けて欲しいとは思わない。いくらそれが単なる自意識過剰の結果だとしても、その根元的な認識そのものを僕はもはや変えることができないだろう。だけど、僕がだれかの天使になることができるなら、そのことが僕の哀しみを癒して行くかもしれない。僕の天使になって欲しいと願うのではなく、君の天使でいさせて欲しいと希求すること。だれかを心から愛するということは、そういうことなのかもしれない。



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