いきなりハウリング・ノイズから始まるM1を聴くだけでこのバンドが並みのポップ・バンドではないことが分かるだろう。抜群のメロディ・センスと美しいコーラス・ワーク、だがそれだけなら僕はこんなに熱心に彼らの音楽を聴かなかったはずだ。このアルバムが僕の苛立ちのスピードみたいなものと同期したのは、そうしたポップ・ソングが歪んだギターで徹底的に汚されていたからだ。暴力的に歪められたギターの奥から語りかけてくるからこそ美しいメロディに意味があるのだと僕には思えた。
なぜならそこには、この美しいメロディを美しいままで早くだれかに届けたい、届けなければというある種の切迫感、性急さがあったからだと思う。そうした意識で加速したポップ・ソングは必然的にどこか歪んだものになるしかなかったのだ。90年代というとりつく島のない時代の始まりにあって、ティーンエイジ・ファンクラブはつんのめりそうになるくらいの前傾姿勢で、これでもかというほどポップな曲を強引に奏でながら高速で運動していた。ポップ・ソングのドップラー効果、青方偏移だ。
長い間そう思っていたのだが、実際今あらためて聴くとこのアルバムの音のひずみ方なんて全然大したことないのに気づく。それよりむしろ、今のティーンエイジ・ファンクラブに通じる曲作りの端正さの方が印象に残るくらいだ。だが、それにもかかわらずここでの彼らが何かを急いでいることは依然として確かなように思える。遠くドイツの狭苦しい語学学校の寮で、携帯用のCDプレーヤーから安いスピーカーを通して出てくる音がひずんでいたのは錯覚ではなかった。これは、リアルなポップだ。
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