logo 第6回殿堂入りアルバム


RAIN DOGS Tom Waits (1985)

都会で生活するということは、自分をめぐるさまざまな関係を自分の手で自覚的に構築して行くということである。都会での生活に疲れ夢破れた主人公が田舎へ帰ってくるドラマは数多くあるが、僕はそうしたものを見るたびにゾッとしてしまう。彼らは都会を捨てたのではなく都会に捨てられたのだ。自己の内面と対峙することができずに、ア・プリオリな人間関係が保障される場、何もしなくても何者かでいられる場所へと逃げ帰ってきたのである。それは自分が自分であることへの責任の放棄だ。

もちろん都会での生活にはリスクも多い。匿名性の背後に潜む危うさや悪意に背筋が寒くなることもある。しかしそこには自己決定の意識的な肯定があり、自己同一化への明確な意志がある。自分であり続けようとしなければすぐに何者でもなくなってしまう張りつめた孤独がある。だから僕は地縁や血縁に依拠した安易な「共同体」への回帰にははっきりとノーをつきつけたい。そして都会の緊張感の中で自分の物語を探し続けることをこそ僕自身の営為の核として肯定し、自らに課したいと思うのだ。

調子っぱずれのピアノ、闇の中からささやきかけてくるようなボーカル。トム・ウェイツが歌い始めるとき、僕たちはそのような都市生活の本質を思う。そこにおいて僕たちが得たものと失ったもののことを思う。そして一人でいるということがどういうことか、だれかといるということがどういうことかを知る。自分が自分であり続けるために汚された自分の手を見つめること。それは都市生活者のブルース、都会で身を切るような寂しさを経験し、それを生き延びた者にしか分からない音楽。
 

 
IF I SHOULD FALL FROM GRACE WITH GOD The Pogues (1988)

シェーン・マクゴーワンの歯の抜けた顔を見ると、こいつは本当に実社会では何の役にも立たない飲んだくれのジャンキーなんだろうなという思いと同時に、こいつはパブでケンカして血まみれになってもおそらくへらへら笑ってるんだろうという畏怖の念がこみ上げてくる。そうしたシェーンの根拠不明な生命力や楽観性のゆえに、ポーグスの奏でるアイリッシュ・トラッドはいつもパンクを通り抜けた音楽だけが持つリアリティや意識のスピードのようなものをきちんと備えていられるのだ。

シェーンが歌い始めたとき、そこにあったのは、寒々としたアイルランドの土地で歌い継がれてきた野卑で荒々しいトラッド・ソングだけだったに違いない。それは彼の頭の中に当たり前のように吸収され、パンクのシンプルな異議申立といつの間にか同期していったのだろう。なぜならそれらはどちらも彼の飲んだくれた「今」とそのままの高さでつながっているという点で等価だったからだ。その結果ポーグスはパンクの現代性を獲得した「新しいトラッド」を演奏することになったのだろう。

リズミカルで明るく、楽しげでありながらどこか哀調をおびたメロディ、シェーンのだみ声が歌いつむいで行く都会のフェアリー・テール、それらがロックに持ち込んだものは土着の力だ。それも「ワールド・ミュージック」のような欺瞞的で収奪的な方法論ではなく、自らの血の中に自然に溶けこんだ周縁からの眼差しをメイン・ストリームにフィードバックすることで。ロックとトラッドが、シェーンのやみくもな生命力を媒介にして、彼らの作品の中でも最も幸福な婚姻を果たしたアルバム。
 

 
犬は吠えるがキャラバンは進む 小沢健二 (1993)

「もう間違いが無いことや もう隙を見せないやりとりには 嫌気がさしちまった」小沢健二のファースト・ソロ・アルバム。ここで歌われるのはいきなり生の本質に降り立とうとするような生々しさ、性急さであり、もっとまっすぐストレートに「心を動かすもの」に切り込んで行きたいという小沢の意志に他ならない。その高い文学性と衒いのないコミュニケーションへの希求でこのアルバムは高い評価を受けた。まっすぐに見据えることで、つまらない皮肉屋たちは「街で深く溺れ死んで行く」。

だが、そうした生に対する小沢の肯定が僕たちの生活に現実性を持ち得るとすれば、それは小沢が人間同士のコミュニケーションの限界に一度は絶望しながら、それでもなおどこかに残されたはずの「信じるに足るもの」を、自分の内側に、まるで目を閉じなければ見ることのできないまぶたの裏の残像を見ようとするように探しているからだ。小沢がもし無批判に人間の善良さや生きることの素晴らしさという題目に依拠しているだけなら、その言葉が僕たちのどこかを打つことはなかったはずだ。

そのことは本作の白眉とも言える「天使たちのシーン」の、「神様を信じる強さを僕に」という歌詞に表れている。この歌詞は「人を信じない強さを僕に」ということと同値だ。そのような本質的な絶望の上に立つことなしに、小沢はフリッパーズ後を始めることができなかったのだ。ほとんど躁状態のようなセカンド・アルバムを経て再び文学性の深奥へと向かう小沢は、その移り気や少年性や屈託のない笑顔や饒舌と裏腹に、初めからずっと孤独だったしこれからもずっと孤独なのだと僕は思う。
 



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