logo コヨーテ、海へ


佐野元春の音楽をモチーフに、堤幸彦が監督した2時間弱のスペシャル・ドラマ。2011年1月にWOWOWで放送された。出演は佐野史郎、林遣都、長渕文音ら。アルバム「Coyote」の収録曲が全編にフィーチャーされている他、佐野元春自身もワンシーンに姿を見せている。

ドラマは、突然仕事を辞め、家を出てなぜかブラジルに降り立った北村秋男(佐野史郎)という中年の男のパートと、秋男の失踪のナゾを解くために残された手がかりを頼りにニューヨークにやってきたその息子ハル(林遣都)のパートを交互に展開する形で進行する。移動することが大きなモチーフになったロード・ムービーである。

やがて秋男の失踪の理由が明かされる一方、ハルはニューヨークで出会ったダンサー兼ガイド、デイジー(長渕文音)の導きで若き日の秋男の足跡を追いながら、このドラマの重要なテーマである「ビート」について学んで行く。秋男とハルの足取りは最後まで交わることがないが、ハルはビートを知ることで父親の心に去来した何かを察し、秋男もまたブラジルの最果てで最後に救済を得たように見える。

日本人の父親とアメリカ人の母親のハーフという設定のデイジーに語らせるビートの歴史がいかにも説明臭く、また、最後に明かされるデイジーの両親のエピソードもやや唐突感がある上、年代設定にも無理が感じられるなどアラは残る。また、ストーリーや設定にもステロタイプな部分があり、人物造形などが類型に依拠している感は否めない。

しかし、ビートや佐野の音楽がいったい何であったのか、それが次の世代にどのようにして引き継がれ得るか、そしてそれが2010年代にいったいどんな意味を持ち得るかというテーマに果敢に取り組み、それに一定の答えを提示した点は高く評価できる。佐野のファンでない人々に普遍的な意味を持ち得る作品かというとやや微妙な感じはするが、佐野に触発されてビートに興味を持ち、「路上」を一所懸命読んだような経験がある人にはしっかりと胸に落ちてくる内容だろう。

特に、佐野のライブ会場でも放映された、ハルがニューヨークの聖マークス教会で佐野の詩「国籍不明のNeo-Beatniksに捧ぐ」を朗読するシーンは素晴らしい。ハルが多くの人の前で詩を朗読しながら何かを理解し、次第に自信を獲得して行く描写は、ビートという新たな概念を知った彼の人間としての成長を暗示しているようで印象的である。何より、ここで朗読される佐野の詩そのものが素晴らしいのは当然としても(佐野は1986年1月1日にこの場所で行われた催し「ポエトリー・ベネフィット」に参加し、アレン・ギンズバークやグレゴリー・コルソにインタビューを試みている。この時の様子はこの詩とともに「THIS」第二期創刊号に掲載されている)。

また、このドラマが自家中毒に陥るのを防ぎ、風通しのよい開かれた作品にしているのは秋男のガイドを務める日系ブラジル人カルロス(飯塚清秀マルコス)の存在と開放的なブラジルの空気である。彼のユーモラスな存在感、ラテン特有の率直さと明るさはこの作品の大きなチャームになっている。特にカルロスが終盤にたどたどしい日本語で語る「私が謝る、奥さんが怒る、私が謝る、奥さんが笑う、子供も笑う、みんな笑う、それがいいんですよ」というセリフにはやられた。

佐野ファンの多くは、僕も含め十代の頃に初期の佐野に出会った、今なら40代前後の世代だろう。彼らはその後、成人し、社会に出る過程で、目の前にあるリアルな現実との折り合いの付け方に悩み、佐野の音楽を聴いて漠然と考えていた理想主義的な生き方、考え方のスタイルを心ならずも少しずつ譲り、諦めながら、それでも自分の中に残るかすかな何かを凝視し、守り続けてきたはずだ。

そうした人たちにとって、このドラマの秋男の姿は少なからず自分自身と重なるところがあったのではないだろうか。そして、自分自身もまた、仕事を放り出してあの頃に戻りたい、あの頃の無垢な心を取り返したいと感じたのではないだろうか。

もちろんそれは簡単ではない。いや、僕は、むしろそれは必要のないことなのではないかと思う。なぜなら、僕たちの日常生活というのは本質的に退屈なものであり、タフなものなのであって、僕たちがもし佐野やビートから何かを学んだのだとしたら、それはそうした退屈でタフな日常の中でこそ試されるべきものだと思うからだ。

そして、このドラマの価値はまさにそこにある。僕たちが実際には日常に厳しく束縛される中で、秋男は僕たちに代わって日常を蹴飛ばしてくれた。旧友との約束を果たすため、仕事を辞めて地球の裏側まで旅をしてくれた。その約束はおそらく僕たち自身の約束であり、このドラマはそのような僕たち自身の約束をまとめて引き受けてくれた。それが優れたフィクションのなし得ることであり、ドラマツルギーということではないのかと僕は思う。

もちろん、それによって僕たち自身を取り巻くリアルな現実が何かしら変化する訳ではないだろう。ドラマによって更新され、洗い直されるのは僕たちの中にあるものの方であり、そこから先はまた僕たち自身に委ねられた僕たち自身の物語なのだ。優れたドラマは日常から逃避するためにあるのではなく、日常に立ち向かうための力をもう一度リニューアルするためにあるはずだ。

だからこそ僕は、秋男が最後には東京に戻り、いったんは捨てた仕事を始める結末であって欲しかった。ハルも日本に戻り、何のために学ぶのか分からない経済学に再び取り組むストーリーであって欲しかった。だが、おそらくそれは蛇足というものだろう。秋男はブラジルの酒場で笑顔を取り戻し、ハルはニューヨークで父親のルーツを発見した。このドラマはそれで十分で、彼らが日常に戻ったのか、あるいは次の旅に出かけたのか、それは僕たちが想像すればいいことなのかもしれない。



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