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ソラリス
スタニスワフ・レム (沼野充義・訳)

早川書房
2021

「SOLARIS」は1961年に発表されたポーランドの作家スタニスワフ・レムの代表作である。わが国では「ソラリスの陽のもとに」というタイトルで長く読み継がれており、アンドレイ・タルコフスキ監督によって映画化もされた(「惑星ソラリス」のタイトルで紹介されている)。SF界ではもはや古典と称して差しつかえのない、ある程度評価の定まった作品だ。僕自身も学生のころにハヤカワ文庫の「ソラリスの陽のもとに」を読んだ記憶がある(今探したがその本がどこにも見あたらない)。

今回、この作品をあらためて読んだのは新訳が出版されたからであるが、訳者の沼野充義によれば従来読まれていた「ソラリスの陽のもとに」は原語であるポーランド語からロシア語に訳されたものからの重訳であり、またおそらくはロシア語の底本に原作から「削除された部分がかなりある」のだという。今回の新訳はポーランドから直接訳出し、削除部分も復元した完訳である。そういう事情なので何十年かぶりに読んでみることにしたわけだ。

発見されたソラリスは青と赤の二つの太陽の周りを回る惑星である。100年にわたる研究の結果、その表面のほとんどを覆う海は知能をもつひとつの生命体であることがわかってくる。それはしかし、地球の人間が想定する「生命」の形とはあまりにもかけはなれた生命、あるいは知能のあり方であった。ただのゼリー状の巨大なかたまりがときとして巨大な構築物を作り上げながらまた絶えずそれを破壊し流動する。それはなんらかの「知的活動」には違いないが人間にはとうてい理解のできないものである。

ソラリスの研究拠点としてその上空に浮かぶステーションに赴任した主人公のケルヴィンは、ステーションが事実上機能を停止していることを知る。そしてその原因はすぐに明らかになる。かつて自殺した恋人ハリーがステーションに現れたのだ。それはソラリスの海がケルヴィンの意識の奥深くに格納された記憶のなかでも最も鮮烈なものを形象化したものにほかならなかった。他の研究員のところにも同じような「お客」が現れ、それでステーションは混乱に陥ったのだった。

以前にこの作品を読み、そしてまたタルコフスキの映画を見たときには、地球から遠く離れた異星で「最も鮮烈な記憶」と対面しなければならないことの地獄が強烈に記憶に残った。そして、これはソラリスの海の攻撃やイヤがらせなのか、歓迎のプレゼントなのか、それともなにかの実験なのか、その「意図」を解明しようというのがこの作品の主題なのだろうと理解していた。しかし、今回ていねいにこの作品を読みかえしてみて、どうもそれは違っていたのではないかと思うにいたった。

「理解不可能」というのはどういうことか、それこそがこの作品の問いかけるものではないのか。どのように世界を受け入れ、世界を解釈するか、そこに含まれるひとつひとつの要素(エレメント)はただなんの意図もなくそこにある。それに意味を与え意味の体系を構築して理解しようとするのは我の側の営みであってその体系は彼の側にあらかじめ備わったものではない。ソラリスの海の挙動を人間の側の意味の体系になぞらえて理解しようとすること自体が驕慢なふるまいなのではないのか。

そうした理解不可能性はしかし、人類とソラリスの海の間にだけあるものではない。およそ「生き物らしい形」をしていない生命体との間にコンタクトが成り立たないということは直感的に理解できるとしても、それよりももっと本源的でもっと深刻な理解不可能性は、むしろ我々人類の間にこそ、あるいは我々人類と世界の間にこそあるのではないか。同じ形態をし、言葉が通じる間柄であればこそ、その理解不可能性はときとしてより尖鋭的な形で吹き出すことになるのではないか。

ソラリスは地球から遠く離れた別の恒星系に属する惑星である。仮にそこに絶望的な理解不可能性があったとしても、我々は静かにそこから離れ、平和裡にそれぞれの時間を刻むことができるかもしれない。しかし、この狭い地球のうえに何十億人もの人間が、何百もの国家がひしめく我々の世界にあっては、我々はその本源的な理解不可能性にもかかわらず、そこでなんらかの不完全なコンタクトを不断に試み続けざるを得ない。それこそ我々の抱えこんだアポリアである。

この作品はそうした理解不可能性とコミュニケーションについて50年以上前に書かれた物語である。そしてそれはまた、我々と神との間にどのようなコンタクトが成り立つかという問いかけでもあり得るだろう。レムはそれを、ケルヴィンと、ソラリスの海が作りだしたハリーとの間のごく限定された、しかしだからこそ純化された交情のなかに、実験室のなかでだけ存在できる不安定な放射性元素のような形で一瞬存在し得たものとして描いたのではないか。

我々が勝手に知った気になって構築したつもりの意味の体系は、その実、絶望的なまでの理解不可能性のうえに成り立っている。それを知らずにコミュニケーションをするのは不幸なことだが、それを知ったとしてもコミュニケーションをやめるわけには行かない。レムはそのことを言っている。

(2022.2.20)



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