謎ときサリンジャー
『バナナフィッシュにうってつけの日』で死んだのはシーモア・グラスではなかったのか。そんな「急になにを言いだすんや」的なフックですべてのサリンジャー読者を一気に引きこむ導入から、『バナナフィッシュ』と対をなす『テディ』、『バナナフィッシュ』が収められた短編集「ナイン・ストーリーズ」の冒頭に掲げられた禅の公案「両手の鳴る音は知る。片手の鳴る音とは何か」などを経て、最後はサリンジャーの代表作とされる『ライ麦畑でつかまえて』に至るまで、サリンジャー作品の深くに横たわる通奏低音を探り当てようとする試み。 いささか牽強付会に過ぎると感じられる部分もないではなく、「そこまで深読みするか〜」と笑うことはあるが、作中にしのばされた手がかりをたどりながら、生者と死者の二重性や「キャッチ」と「ミート」の背反性というサリンジャーの重要なモチーフを浮き彫りにして行く構成は周到なものであり、サリンジャーの作品を読み解くひとつの軸として極めて有効であることは間違いない。 サリンジャーは第二次世界大戦に兵士として参加、彼の主要な作品のほとんどは1945年に除隊してから書かれたものであるが、そこでは自身の苛烈な従軍体験の影響が色濃い。重要な作家として認められ、『バナナフィッシュ』を初めとするグラス家サーガや『ライ麦畑』など、決定的な作品を書きながらも徐々に世間から遠ざかり、作品の発表もまばらになるとともにその内容は禅などの東洋思想に傾倒して難解になった。1965年に短編『ハプワース16,一九二四』を発表したのを最後に、2010年に亡くなるまで公の場にはほぼ姿を現さなかった。 サリンジャーがヨーロッパでユタ・ビーチ上陸作戦を初めとする対独戦の最前線でいかに筆舌に尽くしがたい体験をしたか、そしてその結果彼がどんなに強く損なわれたかは、短編『エズメに - 愛と悲惨をこめて』や『他人行儀』を読めばよくわかるだろう。本書の指摘する「生者と死者の二重性」が的を射たものだとすれば、それは欧州戦線で生きることと死ぬことの境目があまりにも曖昧で便宜的で無意味であることを鮮烈に焼きつけられたサリンジャーが、「本当は自分も死んでいるのではないか」「少なくとも自分の中の幾分かは死んだのではないか」というような感覚を持って帰還したことの写し絵ではないかと僕は思う。 戦場では同じ隊で行動をともにした彼が死に自分が生き残ることの間に必然性はない。すべては確率や巡り合わせの問題にすぎず、自分が死んで彼が生き残っても(あるいはふたりとも死んでも)まったくおかしくはなかったのであり、その可能性の間には価値的な優劣はない。そのような極端に便宜的な生死の修羅場を通過して生き残ったサリンジャーが、「彼が死んでオレが生き残った」のではなく「彼とオレの一部が死に、彼とオレの一部が生き残った」と感じたとしても不思議ではない。彼は自分の中に生者と死者を抱えてアメリカに戻り、そのことを繰り返し作品にしようとしたとしても不思議ではない。 だが、そのような死生観を自分のうちに抱え、それと厳しく向かい合いながら、その意味するものを作品として汲み出そうとする作業はおそらくサリンジャーのただでさえひどく傷んだ精神をさらに容赦なく苛んだに違いない。彼は自分の中に生者と死者を抱え、生者たる自分はそのことを、そのことだけを伝えようとしているのに、世界との和解はどこまで行っても訪れない。なぜなら彼の中の死んでしまったものは彼が最も大切にしてきた彼自身の最良のものであったからだ。彼は次第に気むずかしくなり、彼の書くものは晦渋になり、サリンジャーは自ら世界から遠ざかっていった。最後の短編『ハプワース』は雑誌に発表されたきり、本国では単行本化されることすらなかった。 そのような困難な作家としての生活の中で、彼が禅に傾倒して行ったのもまた理解できることである。そこでは生と死は相対化され、生は死によって更新され得る。禅や俳句といったある種のミニマリズムの中にサリンジャーは宇宙を、救いを見出したのだと思う。『テディ』や『ハプワース』ではサリンジャーは輪廻転生を現実のことのように作品に織りこんでいる。また、彼はその後も膨大な量の作品を書き続けたが、それらは自宅の金庫に厳重に保管され、発表されることはなかったとも報じられる。最後は読まれることすら必要としないほど彼自身の思想は彼の中で完結して行ったのかもしれない。『ハプワース』を読めばそれもまた突飛な空想ではないとわかるだろう。 本書で考察されるサリンジャーの「謎」とそれに対する試論は、こうしたイメージをもちながらサリンジャーの作品を読んできた僕自身にとっては非常に腹に落ちるものであり、むしろあたり前のことのようにすら感じられた。ただ、そこに切りこむ糸口として『バナナフィッシュ』に描かれたシーモアの死の自明性を問うことから始める発想は斬新で、それを横糸にして『ライ麦畑』までをひとつのタペストリーに織りあげるやり方には、「おおっ、そうくるのか」と驚嘆させられた。その意味で非常に面白く、知的なスリルがあって、「そこまで言うか〜」と思いつつも一気読みしたし、文学ってこういうことだよねと思った。 (2022.1.9) (参考)「J.D.サリンジャー全作品レビュー」 2022 Silverboy & Co. e-Mail address : silverboy@silverboy.com |