logo ライン / 村上龍


思い切り胸くその悪い小説だった。もともと村上龍の小説はどれもこれも胸くその悪い題材を扱っているのだが、例えば初期の「透明に近いブルー」も「コインロッカー」も、あるいは「ファシズム」も、ある種の胸くそ悪い情況を力ずくで突き抜けてその向こうにある風景みたいなものを見せてくれていたと思う。特に「コインロッカー」のラストシーン、胸くその悪い世界に「ダチュラ」を散布して高速道路にたたずむ主人公の姿は圧倒的な存在感で視覚的に迫ってきたものだ。

ところがこの作品ではそうした胸くその悪さがどこにも行き着かずどん詰まっているだけだ。登場人物が少しずつ交錯しながらリレー式に物語が展開していって、それがユウコという、電気信号を「読む」ことのできる女を軸にグルグル回っているのだが、その一人一人が繰り返す奇矯な行動は、結局そのまま放り出されるだけで、そこにはただ中途半端な後味の悪さだけが残って行く。登場人物の大部分(いや、全員か)は境界線上または明らかにその向こうにいて、手っ取り早く言えば「キチガイの展覧会」を見ているようなイヤな感じだけが強く印象に残るのだ。

僕は通勤電車でこれを読んでいて、あまりの気分の悪さに途中で読むのをやめようとすら思ったくらいだ。これまで長く村上龍の小説を読んできたがそんなことは初めてだ。もちろん最後まで読んだからこそこうやって感想文を書いている訳だが、思えばここしばらくの村上龍の作品は確かにそういう傾向があった。病んだ人間の「病い」を執拗に追いかけているのだが、そこからはフィクションとしてのカタルシスがどんどん失われて行くように感じられるのだ。

それはつまり、この本の「解説」で田口ランディが書いているように、「『病む』ということこそ、『ライン』を抜けるゲート」なのだということなのだろうか。この、高度に情報化され日毎に加速しつつある無茶苦茶な世界で、「生」の実感を得るためにはもはや病むしかないのだろうか。

村上龍の小説がどんどん胸くそ悪くなってきているのは、要は我々の社会そのものがそれだけどん詰まってどうしようもなくなってきていることの表れに他ならないだろう。村上龍というのはもともとそういう皮膚感覚を文字に置き換えることで、荒唐無稽なフィクションにやみくもなリアリティを獲得してきた作家だからだ。しかし、その荒唐無稽さが荒唐無稽ではなくなってきている。村上龍の想像力は今でも我々をリードしているが、そのリードは確実に小さくなりつつある。

それはおそらく現代社会がおよそどんな出来事でも無理矢理共有し消費しようと恐ろしい勢いで回転し続けているからだ。その結果我々の周りで起こりつつあることは世界の平板化であり、そこで想像力の果たすべき役割はとても限定されたものになりつつあるのだろう。だから、村上龍の小説が、昔と同じ胸くその悪い題材を扱いながら、そこから徐々にロマンチシズムが失われているとしても不思議なことではない。

しかし、想像力やロマンチシズムがまったく無力になってしまったのかといえば僕はそんなことはないと思う。想像力が何の役割も果たさない世界では、我々はニュースだけを見ていればいいだろう。しかし、想像力はそうした一つ一つの事実や現象に意味を与え、生きることの価値を問う貴重な手がかりなのだ。「生」の実感を得るためには、確かに「病む」ことも一つの方法かもしれないが、我々はそんなに簡単に病むことはできない。そういう普通の人たちにとって、想像力やロマンチシズムはそれに代わるほとんど唯一の武器になるだろうし、だからこそ村上龍も胸くそ悪い小説を書き続けているのだろうと僕は思う。



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