logo 「子」のつく名前の女の子は頭がいい / 金原克範


1995年に発表された本だが、その重要性はいささかも失われていない。というよりむしろそこでなされた警告はより先鋭に僕たちの生活に関わり始めているようにすら思われる。

タイトルは挑戦的だがこれはもちろん姓名判断の本ではない。自分の子供(ここでは女の子)に「子」のつく名前をつければ自動的に頭が良くなるという訳ではないし、「子」のつかない名前を持つからといってその子供がすべて頭が悪い訳でももちろんない。大ざっぱに要約すれば、ここで言われているのは次のようなことだ。

子供が有用な情報を的確に選択・受容し、その情報を現実に活用できるかどうかは、家庭環境、中でもその家庭のメディアとのつきあい方に大きく左右される。メディアに過度に依存している家庭では、子供は、楽しく、面白い、「口当たりのいい」情報しか受容できなくなりがちであり、学校の授業や親の忠告といったような情報は聞き捨てられる。そしてそのような家庭では子供に「子」のつかない現代型の名前をつける傾向が強く、それはまさにそうした現代型の名前が氾濫しているメディアの影響に他ならないのである、と。

つまりは子供の生育環境、家庭のメディアとのつきあい方が、一方で子供の名前の決定に大きな影響を与えるとともに、他方でその子供の成長過程において情報接受のあり方にも強く作用するため、現象を眺めれば子供の名前とその行動様式に強い相関が現れるということである。

メディアが現代の子供の性格形成に影響を与えているという指摘自体は珍しいものではないし、むしろ常識になりつつあるといっていいくらいだ。だが、そのことを、時系列と、共時的な階層の双方の視点から縦横に実証して見せたことに本書の価値はあるし、またその物差しとして子供の名前、中でも「子」のつく名前の母集団に対する割合というツールを考え出した着想の豊かさ、面白さは卓抜だと思う。

近代化の進展とともに、抑圧的な伝統や因習的な共同性は崩壊しつつある。なぜならそのようなシステムが内包する非効率性が情報化社会にマッチしない上、その抑圧的で因習的な側面が我々の「気分」と相容れないからである。しかし、そうした伝統的な共同体は、抑圧的で因習的な側面と同時に有用な情報も持っていた。子供のしつけや教育、即ち家庭の中での有用な情報伝達はそのような共同体の内部で営々と受け継がれてきたはずだ。

僕たちが、都市化の中でそうした共同体の抑圧的・因習的な側面を嫌ってそれを投げ出してしまったとき、共同体の持つ有用な情報伝達機能も同時に失われてしまった。そして、その失われた隙間を埋めたのがマス・メディアだった訳だ。しかしマス・メディアは失われたものと同等のものを与えてはくれなかった。マス・メディアは基本的に大衆の欲求に応えるためのシステムであり、大衆に嫌われても有用な情報を伝達しようというモチベーションはそこにはないからである。

そのように考えるとき、それでは共同体をもう一度取り戻そうという動きが出てくるのは自然だ。しかし筆者はこれに対して明快に「ノー」と答えている。

「これらの問題は、現在まで都市化・経済発展・人間関係の希薄化などの問題として処理されてきた。そして、このような観点から、結論として、都市に住むからいけないのだ、経済的なゆとりがあるから仕方ないのだ、人間的な優しさが必要なのだ、こういった意見がいつも述べられてきた。
(中略) 僕たちは都市を失くすわけにはいかない(必要があって都市はできたのだ)。もし、経済が崩壊したなら、現在の問題よりも恐ろしい結果を招くことは必定だ。人間的な優しさが必要だという視点は、原因と結果とを混同している。これらの結論は原因を提示して一種の安心感を与えてはいる。しかし、同時に僕たちのあまりの無力さを暴露しているようにもみえてしまう」

僕もまた同じ考えだ。問題は共同体が失われたことにあるのではなく、それとともに失われた「よきもの」を別の形で引き継ぐシステムが作られてこなかったことにこそある。僕たちがやるべきことは抑圧的で因習的な伝統や共同体を復活させることではなく、都市化、情報化という不可避な現代社会の変化の中で、しかしその中でもなお受け継がれるべき「生存のための知恵」をいかにして伝えて行くかということであり、またその「知恵」を現代社会のあり方に即したものにいかにアップデートして行くかということに他ならないはずだ。

僕が始めに、「そこでなされた警告はより先鋭に僕たちの生活に関わり始めている」と書いたのは、もちろんインターネットを念頭に置いてのことだ。今日では「失われた価値」の隙間を埋めているのはいわゆるマス・メディアだけではない。ネットという、より個別性の高いパーソナルなメディアが、ひとりひとりの好みに、より密接に、いわばべったりと寄り添う社会になりつつある。それはマス・メディアにも増して楽しく、面白いだけの情報を垂れ流すブラックボックスになり得るのだ。

だが、ネットがマス・メディアと違うのは、それが極めて個別的なコミュニケーション・ツールにもなり得るということだ。そこでは、共同体とともに失われた有用な情報が、再び自覚的、自発的な目的意識によって新しい形で流通し共有される可能性がある。そのようなネットの両面性を考えるとき、そこで問われているのはコミュニケーションに対する僕たちの主体的な意志に他ならないということ、そして僕たちが今や最後のチャンスに立ち会いつつあるということが理解できるのではないかと思う。そこで僕たちが必要としているのは、とても具体的でとても個別的なもののはずなのだから。



Copyright Reserved
2001 Silverboy & Co.
e-Mail address : silverboy@silverboy.com