logo 模倣犯 / 宮部みゆき


僕たちは退屈している。どんなに悲惨で極端な事件もすぐに忘れ去られ、僕たちはもっと悲惨でもっと極端な事件を待ち続ける。僕たちはそんな事件に大げさに驚き、怒り、嘆き、新聞やニュースやネットで続報を追い、そして数週間もすればそんなことはすっかり忘れてさらに悲惨でさらに極端な次の事件を待つ。犯罪もまた消費されて行くのだ。

実際に起こる犯罪はそのような観客の期待に応えただけのことだ。意識的にであれ無意識にであれ、犯罪はすべてそのような社会の空気の中でしか起こり得ない。どんなに奇怪で醜悪な犯罪でも、それが起こってしまったということはそれが社会から期待されていたし許容されていたということなのだ。我々が本当に望まない犯罪、想像もしない事件は起こらない。すべての犯罪は我々の想像力から生まれた怪物なのだ。

この作品がなにがしかの説得力を持ち得るとすれば、そこで描かれた犯罪のスタイルが我々の社会で既に期待され許容されているものだからに違いない。そんな事件はまだ実際に起こっていないとしても、それはもはやそれだけのことであり、こんな犯罪はいつか起こるかもしれない、起こってもおかしくない、そして、恐ろしいことだが起こったら「面白いかもな」とあなたが心のどこかで思っているとすれば、その事件は既に社会から期待され許容されているのであり、既に半分以上「起こって」いるのだ。

だから我々はこの小説を読んでも、それがまったくの絵空事だという滑稽さを感じない。むしろいずれはこんな事件が起こるかもな、という予感や、似た事件がなかったっけ、という既視感みたいなものを抱くのだ。この作品が優秀なのは、まだ実際には起こっていない、しかし我々の心の中では既に半分起こっている(つまりいつ起こってもおかしくない)という境界的なリアリティをすくい取り、それを丹念な書き込みで立体的に構成して、まるでノンフィクションのような迫真性を獲得しているからに他ならない。

この中で犯人はテレビを通じ日本中の観客と向かい合う。そこでは、あなた方、悲惨な事件に怒った顔してるけど、ホントはこういうのが好きなんでしょ、こんな事件が起こるのを待ってたんでしょ、だからこそワイドショー見てるんでしょ、という「期待と許容」の構造が浮き彫りにされる。メディアだってそういう期待と許容の中でしか動いていない。本当に視聴者が見たくない番組、望まない情報はどこからも流されないのだから。

だからあなたは本当はこんな小説を「楽しんで」読めてしまう自分に気づいて戦慄するべきなのだ。こんな事件そのうち起こってもおかしくないよなと思っている自分の「受容」こそがそういう犯罪を毎日生み出し続けていることを知るべきなのだ。これを読んでいる限りあなたの立場はワイドショーの視聴者と同じ。この作品はそういう社会的な無意識の期待と許容を問う、ストライクゾーンいっぱいのきわどい小説なのではないかと思う。

だが、この小説には致命的な欠陥がある。それは、有馬義郎や塚田真一というサイド・キャラクターが実に丹念に、丁寧に描かれていて、彼らの行動の一つ一つが強い説得力を持って物語をドライブして行くのに、肝心のピースについてはほとんど何も語られないということだ。栗橋浩美や高井和明がどのような経緯で、どのような人格を育み、それがどのような行動に結びついていったのか、それは実に自然で緻密に組み立てられているのに、ピースという怪物がどこから来てなぜそのような行動をとるのか、その書き込みは決定的に不足しているし、それが最後に割り切れない「あっけなさ」として尾を引いてしまう。

こういう犯罪が起こり得るということは理解できる。しかし、読者がこの物語に期待するものは、いったいどんな人間がそういう犯罪を起こし得るのかということなのではないか。まだ起こっていない事件のリアリティを突きつけるという意味でこの作品はよく書かれているが、それは人間のどんな心の闇から生まれてくるのかということの検証としては食い足りないところを残している。この作品が、新幹線に乗っている間に楽しく読めればいいじゃないかというような類の読み捨て小説の域にとどまっているとすれば、その理由はここにあると思う。



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