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ストレンジ・デイズ

● 村上龍・著
● 講談社

村上龍の小説を読むと体力を消耗するのが自分で分かる。読み進むにつれ僕たちは手のひらにじっとりと汗をかき、無性に喉が乾いてくる。なぜなら村上龍の小説は僕たちがふだんなるべく触れずにすませようとしていることを明らかにしようとするからだ。はっきりした答えを出さないことで毎日先延ばしにしていることに今ここで向かい合うことを要求するからだ。僕たちは自分の中の曖昧さを取り出して突きつけられる。どうだ、ここに書いてあるのはこの小説をへらへらしながら読んでるオマエのことなんだ、いたたまれないような気分になるのは思い当たることがあるからだろう、と。読者は安全地帯から物語を眺めることを許されず、当事者として小説にコミットすることを強要される。そしてそれは間違いなく優れた小説だけがなし得ることである。

この小説の主人公・反町はそれまでの仕事すべてが意味のないものに思えて社会からドロップ・アウトする。大切なことは、この奇妙な日々の中で本当にやりたいことが実に見えにくくなっているということだ。自分の欲望に素直に行動することで人は解放されるが、高度にソフィスティケートされた社会では本当の自分の欲望がどこにあるのかすら僕たちは容易に知ることができない。そのために僕たちはほとんど慢性的な憂鬱や無力感、絶望にさいなまれることになる。それは僕たちの日常を彩る最も基本的なトーンになっているのだ。

自分の本当の欲望に近づくためにはきちんとリスク・テイクをしなければならない。ところがこの世界ではリスク・テイクをすること自体が既に困難になりつつある。なぜなら我々の豊かな社会ではリスク・テイクなんかしなくても十分食べて行けるからだ。高度経済成長によって生活水準の全体的な底上げが行われた結果、今の日本では「飢える」ということがほとんどない。家から一歩も出なくたって生きて行けるし、コンビニに行けば食べるものなんていつでもあふれかえっている。PCの電源を入れればそこには匿名の親密な共同体さえ形成されている。自分で何かを背負い、リスクを取って何かを求めるということの切実な必要性は恐ろしく低い。そこにおいてはリスク・テイクをするということ自体が明確な意志と方向づけなしには成り立ち得ない困難な営為になりつつあるのだ。

「共生虫」の感想文のところでも書いたとおり、そんな情況の中で僕たちが最も必要としているのは、自分の欲望を自覚するための具体的な方法論であり、現実的な技術であり、実践的な知恵である。具体的に考えること、想像することで、僕たちは本来自分のものであったはずの自分の欲望をもう一度グリップし直さなければならないし、その中に踏み込んで行かなければならないだろう。そのためにはある種のスキルが必要とされるはずなのだがそれはコンビニでは売られていない。だれもが自己実現について語りたがるが、自己実現にはまず自分の欲望を自分でしっかりと把握することが必要だし、そのためにはある種の現実的で即物的なスキルがなければならないということに気づいている者は実際には極めて少ない。

そこでは目的と手段の関係も曖昧になっている。例えばネットは手段でありスキルに過ぎないがその中に自律的な目的を見出すことは可能だ。そのような重層性が僕たちの認識を混乱させていて僕たちはたやすく目的つまり自分の欲望から遠ざけられてしまうのだ。

僕はいったい何をしたいのか。その欲望は本来焼けつくように自分の内側に立ち上がってくるべきもののはずであり、幸福でシンプルな時代にはそこに疑問の余地などなかっただろう。このマテリアル・ワールドにあっては欲望を実現することそれ自体ではなく、その欲望の所在を確かめることこそが僕たちの切実な日常のテーマだということ。この小説を読んでしまった以上、それに気づかないふりをすることはもはやできないはずだ。


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