昨年、僕はブラーのアルバム「13」をレビューした。5点は僕がレビューしたアルバムにつける最も低い採点の部類である。これに対して、サイト「FREAKSCENE」を主宰するKOBさんが、「AWARD 99」の中で反論するレビューを書かれている。今回、KOBさんのご厚意でそのレビューを転載させていただくとともに、僕がそれに答えた文章も併せて掲載することとした。もちろんどちらが正しいという訳でなく、WEBサイトという土俵でこんなコール&レスポンスが可能だということの試みとして読んでみて欲しい。
尚、KOBさんのサイトの方にも僕の「13」評と反論が掲載され、同じものが両方のサイトで読めることになっている。中身は同じだが、KOBさんのサイトは他にも読みどころの多い音楽サイトなので、興味のある人はこの機会に是非一度訪れてみて欲しい。では、どうぞ。
● アルバム「13」レビュー Written by Silverboy
(Silverboy Club / Disc Review / 「99年2・3月の買い物」掲載)
各方面で絶賛を浴びているブラーの新譜である。ドイツ版「ローリング・ストーン」誌までが異例の5つ星つまり満点をつけている。端整なポップ・チューンを捨て去り、内面の葛藤をそのまま吐露したかのようなヘビーでノイジーなサイケデリック・サウンドを延々と70分間にわたって繰り広げるこの混沌としたアルバムを、「ロッキング・オン」誌では「ロックを奪還」したものだと評価しているのだ。でもなあ、内面の葛藤を吐露と言い、生の断片と言い、一人の人間の赤裸々な苦悩と言い、それって結局デーモンがジャスティーンにフラれたっていうことでしょ? そりゃ赤裸々な苦悩には違いないだろうけど、それだけでアルバムの方向性がここまで大胆に転換してしまうというのはちょっと本当にそれでいいんですかという感じ。じゃ、そこにおけるデーモンの時代と切り結ぶ意志とはいったい何? このアルバムの現代性とはいったい何? 要はデーモンの世界観がジャスティーンにフラれることでここまで劇的に変わっちゃうような程度のものだったってこと?
もちろんアーティストの個人的な問題が作品に有形無形の影響を与えること自体は珍しくもないし、彼の気持ちは分からなくもない(いや、よく分かる気がする)。でもこれは職業として制作し、発表し、相応の対価を取って販売するプロとしての作品だろう。そんなところに自分の個人的な女性関係の事情をドロドロぶち込まれても困る。ノエルならいくら嫁さんと別れても絶対にこんなアルバム作らない。そこには自分の音楽に対する確信と責任の自覚があるからだ。高尚ぶったアバンギャルド・アルバムを作るより、ここで敢えてポップのフィールドにとどまることの方が才能も勇気も必要だったはず。正直言って退屈。「COFFEE & TV」みたいな曲も作れるのに。5点。
● シングル「TENDER」レビュー Written by KOB
(FREAKSCENE / 「AWARD 99」掲載)
ブラーに始まった99年。彼らはこの「愛の歌」に全てを賭け、不屈の闘志で帰還した。この、J・レノンを思わせる緩やかなゴスペル調のアンセムは、スタイルこそゴスペルだが、もっと単純なことを歌っている。"Tender is the night. Flying by your side."そんな穏やかな優しさがあふれるリリックは、誰か特定の人物に対して向けられたものではない。悲しみの別離を乗り越え、更なる探求の旅を続けようと必死にもがくデーモン・アルバーンという男。もっと自由に、自分のやりたいことをうつむきながら開放しようとするグレアム・コクソンという男。幾多の困難を乗り越えてきた、稀有な才能を擁するこの集団が、か細く"Oh my baby"とつぶやくとき、われわれはそれから目を背けてはいけない。それは泣きではなく、むしろ人間として生きていくために、何とか日常を乗り越えていくために、歌ならずとも持っておきたいものだからだ。だからSilverboyさん曰く「あんなデーモンを売りつけられる身になってみろ」なんていう今回のブラーに関する批判だけは納得できないのだ。氏のレヴューには日頃から敬意をもって接していることを前提に、もう少し続けることにする。
確かに「パークライフ」でのブラーは無敵のポップ・アイコンとして最大の風に乗っていた。それは永遠に続くものではなかったが、しかし、それはブラーそのものでもない。彼ら自身は変化しつづけ、そのたびに新しい地平を開いてきた。それをもってして、スタイルの変化を、意思の変化を揶揄すべきではないだろう。デーモンはかくあるべきだとか、こんな逆境だからこそ逆に死ぬほどポップな曲で逆襲するべきだ、なんていうのは無茶だと思う。僕は超人としてのブラーが好きなわけじゃない。デーモンは偶像ではなく、一人の人間として、本当に真っ当に生きている。強がったり、無茶言ったりしない。勝ったり、負けたりする。だから、デーモンが信頼できるんじゃないか。仮に氏のいうところの今回のブラーがいわゆる「負け」モードだったとしても、「それがどうした?」と言えばいい。ブラーは進む。誰が何と言っても、進む。
● Response to KOB Written by Silverboy
僕のブラー評にレスポンスをいただきありがとうございます。ブラーのアルバム「13」に対する僕のレビューそのものは僕のサイトをご参照いただきたいのですが、この場をお借りして、僕の考え方を少しだけ説明させていただきたいと思います。僕はブラーが真剣に音楽に取り組んでいること、ロック表現の前線に立ち続けている優秀なアーティストであること自体には何の異論もありません。そして彼らがその表現形態を変化させて行くことを否定するのでもありません。仮に彼らの新しい作品がこれまでの作品とまったく違ったスタイルのものであったとしても、そのことをもって彼らを批判したり、ブラーは変わってしまったと嘆くつもりはありません。
さらには、僕はアーティストがその個人的な苦悩を音楽に昇華させることを否定するのでもありません。だって、ロックなんて、いや音楽なんて、どのみち個人的な体験でしかあり得ないんだし、個人的な動機に基づかない普遍的な表現なんてものこそ僕はウソ臭いと思うから。
では、僕が今回のブラーのアルバムを酷評した理由は何か。それはそこにおけるデーモンの心情吐露があまりに「そのまま」(悪くいえば安直)であり、アーティストとしてそれを自分の表現に引きつけるという大切なステップがそっくり抜け落ちているのではないかと危惧したからです。この作品がデーモンの個人的な挫折の記録(あるいは記憶)として自閉しており、あくまで日常の音楽であるロック表現として開かれていないのではないかと感じたからです。
また、僕はブラーというバンドの第一の美質は、ねじれたポップ感の中に微妙な感情の機微や批評性を忍びこませる巧みなソング・ライティングにあると思っています。したがって、彼らがその美質を捨てて変化するなら、それを上回る表現としての結果を出さなければ高い点はつけられないし、そういう意味でも僕にはこのアルバムは表現そのものの内発性において変化の必然性が明確でないものと感じられました。おそらくこの辺は好みの問題に帰着すると思いますが。
もちろん人間は勝ったり負けたりする。だからこの作品をデーモンの負けの記録として、それでもデーモンが進むことの証として認めることはやぶさかでないし、だからこそ僕はこのアルバムを黙殺せず、「わざわざ悪い点をつけて酷評した」のです。
巷間、ブラーの先行きに不穏な空気が漂っていますが、ブラーの今後の活躍を願う点では僕もKOBさんもおそらくは同じだと思います。また、いうまでもないことですが、KOBさんの音楽に対する愛情ときめ細かいレビューには日頃から大きな敬意を抱いていることを申し添えます。今回はこのようなウェブ討論の機会を得てとても楽しかったです。また別のテーマでやりましょう。少しばかりと言いながら結局長くなっちゃってごめん。
● Response to Silverboy Written by KOB
非常に丁寧な、しかも、先行していた「13」レヴューを補完して有り余るレスを頂いたことを、本当に嬉しく思います。「13」もしくは現在のブラーに対するお互いの思いや考えが明確になってきた今となっては、納得できないところはほとんどないし、議論を戦わせる必要はないように思います。したがって、今回は、僕はブラーの変貌と、(この前は一応"Tender"レヴューだったので)「13」は一体今どう響いているのかということにフォーカスを絞って書いてみます。確かに「13」が通過点のアルバムであることには間違いないと思います。ブラーのポテンシャルはもっとすごいはず!っていうのはどうやらSilverboyさんとの共通の認識のようです。しかし、それ単体で聴いた時、あの電子音とノイズの向こうに、あきらかにまばゆい光を感じることが出来ます。それは先ほどから何度も比較している「blur」に満ちていた閉塞感と比べて、断然自由で解放された彼らが居たとも言えるでしょう。たとえポップなメロディが一切響いてこなかったとしてもね。
ただSilverboyさんがブラーの美質として挙げられていた「ねじれたポップ感の中に微妙な感情の機微や批評性を忍びこませる巧みなソング・ライティング」ということについてですが、周知の通り、前作「blur」からいよいよ贅肉を落とし、より真っ直ぐに、しかしアブストラクトな方向へ振れたりしながら、確かに「そのまま」な心象風景を描くようになった印象が強くなっています。つまり、Silverboyさん言うところの美質は、現段階では既にかなり薄れてきているといえるでしょう。「blur」から「13」へのステップはKOBにはそこまで無理なものには映りませんでしたが、やはり、彼らの抱えるメランコリックな側面が図らずもノイズの中でこだましていたり、「Tender」でそのまんま届けられたり、いろんな形で噴出しているのが分かります。批評性には乏しい音楽形態をとるようになった彼らには、やはりあの "Tracy Jack"のような、毒があって、ストーリーテラーのような物言いは既に似つかわしくない気さえします。
しかし、しかしです。僕はフジロックで確信しました。そのSilverboyさんの言う美質を爆発させたステージ後半のブラーは圧倒的にカッコよかったのです。「blur」時のツアーやライヴではそういった過去の自分たちと決別すべくポップ・ナンバーを排して臨んだ彼らは、決定的なスタイルの変化をきたした現在の肉体で、その過去のポップでクリティカルなナンバーを堂々と鳴らせる強さを取り戻していたのです。それを肉眼で、この耳で直に確認できてよかった!!心からそう思っています。
Silverboyさんの言う通り、ブラーのスタイルは今後も変化していくことと思いますが、一つの予感として、ブリット・ポップやブリティッシュ・ルネッサンスなんかと全然関係なく、いつか、俄然ポップな音を鳴らしてきそうな気がします。それは、彼らがそんな過去のナンバーを屈託なく、勇気で鳴らせることが出来たから、KOBが勝手にそうなるんじゃないかと思っているだけですが、そんな日が来るとすれば、やはり第3者的見方、というか批評眼とか、そのような視点に頼る必要性がなくなっているでしょう。まあ、推測ですけど。
でも、過去の自分たちをキチンと総括出来るような、そんなブラーだったら、少なくともアイデンティティ・クライシスに陥ることはないでしょうよ。最後に、貴重な機会(たくらみ?)を下さった、Silverboyさんに本当に感謝しています。今後ともよろしくです。
という訳で、我々のバトル・レビューはこれで終わりだが、書きっぱなし、言いっぱなしでない新しい双方向性と機動性、読者も筆者もない互換性、そんなところに何かの新しい可能性が見出せるのだとしたらこの企画は成功かもしれない。繰り返しになるが、これを読んでKOBさんのレビューに興味を持った方は、是非彼のサイトを訪れて欲しい。VISIT "FREAKSCENE" !!