logo 僕は愚かな人類の子供だった


長い間会っていないKへ。今日は僕の好きな佐野元春のことを書こうと思う。それも彼が最近発表した新しい作品「僕は愚かな人類の子供だった」について。

君も知っているかもしれないが、この曲は手塚治虫へのトリビュート・アルバムに収められた後、「デジタル・アート・ピース(DAP)」と銘打ってプロモーション用の映像ともどもインターネット配信された。しかしその作品の内容について云々するのはまた次の機会にしよう。今日僕が書きたいのは、そのディストリビューションについてだ。

正直言って、僕はこうしたディストリビューションの方法がまだまだ実験としての意味しか持ち得ないということを強く感じた。まず、ダウンロードが一苦労だ。僕の通信環境は288モデム、4.8MBのDAPをダウンロードするのに10分はかかったと思う。ISDNでも使っていればもう少しはマシだったのかもしれないが、今の平均的な通信環境を考えれば、このデータ量はかなりのストレスになるんじゃないかな。

次に、課金・決済の方法がまだまだ未整備だ。これはインターネット・ショッピング全般に言えることかもしれないが、ネットにおける決済手段が標準化されていないために、だれもが安心して気軽に使える支払いの方法がない。どうしてネットでデータをダウンロードするためにコンビニへカードを買いに行かなければならないのか。それならそこでCD−ROMを売ればいいのでは。

さらに、普及したとはいえ、パソコン、あるいはネットといったメディアは決してまだだれもが持っているという訳ではないことも問題だ。ポップ・ミュージックを伝えるメディアとして、例えば自宅にパソコンのない中学生がどうやってこの作品を購入できるのか、僕が中学生や高校生だったら怒ってたんじゃないかな。

それに、そういう普及率の問題を抜きにしても、パソコンやネット自体が本質的に一定のインテリジェンスの存在を前提にした、ある意味で差別的、特権的なメディアであるという問題は残ると思う。いくらパソコンの操作が簡単になり、一種のブラック・ボックスとして、家電として普及したとしても、それがテレビやラジオ、あるいはCDといったメディアに比べて、はるかに高度なネゴシエーション、コミュニケーションをユーザーに強いることは否定できない。

もちろん、メディアは進化すべきものだし、その過渡的な時期にこうした実験が行われることの意義はあるだろう。だけど、これが「実用化」されるまでにはまだまだ解決されねばならない問題がたくさんあるし、それが音楽流通の中心的なメディアになるかということになれば、僕は極めて懐疑的にならざるを得ない。仮にそういうことがあり得るとしてもそれは随分先のことだろう。とにかく今はまだ、これならCDなりCD−ROMなりをお店に買いに行った方がよっぽど便利で手っ取り早いし、アクセスの手段としてもオープンでフェアだということ。どうだろう。

ついでに著作権の問題について。佐野はこうした作品が簡単にコピーされて流通してしまうことへの危惧を表明しているけども、それは果たして電子的データに固有の問題なんだろうか。もちろんそのエリアについて法制度が未整備だということはあるかもしれないけど、例えばだれかが買った作品をコピーして友達に渡しちゃうってことは古くアナログ・レコードの時代からある問題だし、データの場合は作品の内容が劣化せずしかも簡単に大量配布が可能という特色はあるにせよ、問題の本質は同じことなんじゃないかな。それに、大きな声じゃ言えないけど、友達から借りたCDで新しい音楽の扉が開けるということだってある。僕が初めて佐野のレコードを聴いたのも、友達に借りた「SOMEDAY」のアルバムだった。もちろん今は自分で持っているけどね。

今夜はもう遅くなった。僕はそろそろ寝ることにする。また手紙を書く。おやすみ




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