stamp  第三信 : 網の目
あるまじろう to Silverboy


こんにちは。お元気ですか?

お返事がとっても遅くなってしまって本当にごめんなさい。ご無沙汰している間、日本は早春からすっかり初夏になりました。5月の爽やかな陽気です。梅雨の前のほんの束の間の季節です。 毎年ながら、なぜこの季節はこんなにも短いのだろうと思いながらも満喫しています。

さて、いくら私たちが「生身」にこだわったとしても 、非「生身」なコミュニケーションを可能にするツールが私の日常に食い込みつつあること、 そのことによって私の中、あるいは人々の中の何かが変わりつつあることーそんなことを最近よく考えています。

私はこの文章を箱根から都内に戻る電車の中でモバイル端末を使って書いています。 愛機はそれほど小さくはないけれど持ち運びは苦にならない程度のノート型パソコン。まだ使い初めて2ヶ月という新しい相棒です。私の愛機はいつもノート(あるいはその前世代の「ラップトップ」)なのですが、家の外に持ち出す気はさらさらなく、タワー型のパソコンと同じように家の中で据え置きで使っています。たまたま今回所用のために出かけた先でパソコンが必要になったため、初めて愛機とともに出かけることになりました。多分、こんな機会がなければずっと愛機は私の部屋の外を見ることがなかったでしょう。今まで、そしてこれからも私にはモバイルとしてパソコンを使う必要性がほぼ皆無でしょう。また、いわゆるモバイラーという人たちも必要性に迫られてそのようなスタイルを取っているのであって、私のような非アクティブな、あるいはオーディナリーなパソコンユーザーの延長線上に彼らは位置づいているのだと考えていました。そんな私なのですから、今回のモバイル初体験を端緒にしてSilverboyさんにこうして一筆したためることになるなんて、思いもしていなかったのですが…。

さて、自宅の外に愛機を持ちだした私なのですが、加えて出先からメールのやりとりをしなければならない事態に見舞われました。出先でただ単に立ち上げて使うだけのつもりだったパソコンをインターネットに 繋がなくてはならないのです。間の悪いことに、携帯電話が故障してしまい (そもそも、携帯電話用のカードなど持っていなかったのですが)、 箱根の山奥で私はネットワーク接続端子のある公衆電話を捜し求める災厄に見舞われます。 結論から言えば首尾よく徒歩5分くらいのところにISDN対応の公衆電話を見つけ、 朝夕にメールを出し入れすることに成功したのですが。

箱根に滞在している間、朝夕電話ボックスに通う行き帰り帰りに私はふとこう思いました。
「今の私には携帯電話もないし、E-mailもない」
そんな、心もとなさのようなものがが一気に私の中に湧き出てきたのです。 しかしその一瞬後にこうも感じました。心もとなさを感じた自分自身があまりにも危なげな、脆い存在ではないのだろうか というひやっとした心寒い感じ。

今、私は誰とも繋がり合えないのではないか、という感覚と
今、私は誰と繋がり合っていなくてはならないのか、という感覚。
そんな相反する感覚が一時に私の中に生まれていたのです。

話は少しそれますが、私は海外への旅ががとても好きです。 そんなことを殊更に宣言するのは口幅ったいのですが、 知らない国、土地を旅する楽しみと同じくらい大きな、海外への旅を好んでいる理由があるのです。 その理由とは、「私」の存在を擬似的に消し去ってしまう旅の自由さと開放感です。

空港の税関を通った瞬間から私は日常のすべてを一時停止します。 日常的に誰かと会うことがないし、自分宛の手紙も受け取ること が出来ない。 自宅の電話はもちろん取れないし、携帯電話も通じない。 海外からわざわざ留守番電話の確認なんてしないし、ましてや荷物になるモバイルを 持参してメールチェックする気なんてさらさらない。 旅の間、私が日常を過ごしている場所にはぽっかりと穴が空いてしいまったように自分は思うけれど、恐らくそこを取り巻く人々は 私がいないことによって何の問題を感じることもなく過ごしている。 もし日常を取り巻く人々に向かっていつも通に語りかけようとしても、それは遠く何千キロも離れた国から ある程度の手間と費用、時には努力を払わなければそれは叶わない。 そんなことをする費用対効果を考えれば、わざわざ旅先からコンタクトなんてしようとも思わない…。

海外を旅すること―つまり、日常を留守にすることで、私はその存在をあらしめているすべての状況から離れることになり、その状況が私に迫る全ての責任から離脱することができます。 私はそこに自由を見出し、開放感を享受します。 しかし当然のことですが日々旅を続けていると、異国の地においてもそこで脈々と行われている日常を、自分は部外者として眺めている自分に気づくことになります。そして私はこう考えるようになるでしょう。 自分が感じているのは、旅を終えて帰っていくことが前提になっている贅沢で無責任な自由であり開放感なのだろう、と。また、私が旅を終えて帰っていく場所ーつまり、それは私をあらしめている状況と言えるでしょうーは、普段はそれが自分をがんじがらめに縛り上げているような息苦しさを感じさせるとしても、旅に出て離れた場所から眺めてみれば、辛く感じた息苦しささえ、自分を自分たらしめていたものであり、自分が進んで選び取っていたものをであったことに思い当たるのです。そうなるば徐々に、私をあらしめている場所を置き去りにしてきたことに焦りを感じ始めます。そして、日常を取り巻く人々に宛てた絵葉書や、つれづれのままに撮った写真や、旅のスケッチのような文章、そんな風にかたちに残らない些細な思い出さえも、どこか自分の置き去りにしてきた日常への言い訳のような色合いを帯びてきます。

結局、私は旅をすることと同じくらい、私が日常から一時断絶することを楽しみ、そこから自分の日常を見つめ直すことを楽しんでいるのです。私はその楽しみを海外旅行でなければ得られないものだと考えているところがありますが、実は、それはあらゆる状況ー国内の旅はもちろん、知らない街を歩く時、毎日生活する場であってもそれは可能なのかもしれません。しかし一方で、それはやはり難しいような気がします。なぜなら、海外に出て一番私に非日常を感じさせるのは、言葉や目に入る風景や未知のものと触れ合うことであるのと同じくらい、日常生活の中で完全に私を絡めとっているコミュニケーションの「網の目」から物理的にも、精神的にも自由であるとというファクターが大きいと考えているからです。コミュニケーションの「網の目」を物理的に保証するコミュニケーション・ツールからは離れきれない国内の旅行や、ましてや日常生活の中の1コマに、非日常を感じるのはとても難しいことでしょう。海外に出る時ぐらい物理的に不可効力な状況であり、それに伴って心理的に「網の目」を離れることでしか非日常を感じることが出来なくなっているのです。

少し前までは、日常の中に非日常を感じること―「網の目」を日常のほんの一瞬脱出して自由になることが、海外旅行ほど強行な手段でなくても、そう難しいことではなかったような気がします。そう感じるのは、私が歳を重ねるにつれて自分の日常を確固として築き上げた証拠なのかもしれません。そうだとすれば、このことを必ずしも否定的に考えるべきではないでしょう。しかしそのこととは別に、実際に「網の目」がどんどん細かくなった結果、日常を抜け出すことが難しくなってしまったとも思えるのです。携帯やE-mailなどの新しいコミュニケーション・ツールーこれらは「網の目」を小さくすることでその威力を発揮するものだと言えるでしょうーが、私の日常生活にしっかりと食い込んでいることが「網の目」を細かくしているという事実がが少なからずあるのではないでしょうか。

携帯電話もE-mailも、人々が日常自分をからめとっているコミュニケーションの「網の目」から一瞬抜け出すことの出来た時間や場所を活用することによって、便利さ生み出すツールだと言えるでしょう。今まではコミュニケーションできなかった時間や場所や状況で、それを可能にしてしまうことが便利さを導いているものなのです。そう考えてみると、それらのツールは、コミュニケーションが不可能な時点で地点であるからこそ可能であった「網の目」を抜け出す“チャンス”と、「便利さ」と交換しているに思えるのです。つまり、“チャンス”を放棄し、常にコミュニケーションの「網の目」にからめとられることを強いられているからこそ導かれる便利がそこに実現しているのです。これが『「網の目」が小さくなった』という状態です。

「網の目」を抜け出すことによる清々しい感じ、そしてそこで得られる豊かさは、それがほんの一瞬のものであったとしても、先に述べた海外旅行で感じる自由や開放感と同じものだと私は思います。そして「網の目」を抜け出したからといってそれを捨ててしまう訳ではなく、そのことによって私たちは「網の目」の意味を見出し、大切にすることができるようになるのだと思うのです。しかし、携帯やE-mailといった新しいコミュニケーション・ツールが「網の目」を小さくすることによって便利さを導くツールなのだと考たとすれば、それらが私の日常に食い込めば食い込むほど、「網の目」を抜け出すチャンスを狭めてしまうことになってしまうのです。その上、「網の目」を抜け出すことに対して、そして「網の目」そのものにもネガティブになってしまうことさえあるのでしょう。そのことに思い当たったのがのが箱根の山道での私だったのです。

便利という理由で新しいコミュニケーション・ツールを取り入れていることが、実は何か根本的なところに大きくな変化につながる影響をしている可能性にはからずも気が付くことになりました。だからといって具体的に使い方を変えたり、やめてしまったからといって元に戻れるというものでもなさそうです。それらのツールの活用を前提にして現実に私をからめとる「網の目」は成立しているわけですから。私に今できることは、自分にとってのそれらを使う意味と、そこに生まれてくるものは何なのか、少なくともそれを意識しておく必要性を考えさせられたモバイル初体験なのでした。

それでは、お返事を楽しみにしております。


Sincerely yours, あるまじろう
2000.6.1



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