stamp  第一信 : 生身の/ありのままの 自分
あるまじろう to Silverboy


こんにちは。お元気ですか?

こちらは桃の節句を迎えて、急に暖かくなりました。漂う空気、流れる風の中、いたるところに春の匂いを感じます。どんな匂いなのかと問われれば、答えに窮してしまうのですが、匂いを感じることそのものに私は春を感じるのです。

記念すべき往復書簡第一信に何を書こうかと考えた時、ふっと思い出されたことがありました。私がネットワーク上で出会い、コミュニケートするようなった最初の人はSilverboyさんだった、ということです。
今では大抵のサイトには掲示板のコーナーがあって、気軽にサイトの主宰者とやり取りが出来るようになっているのだけど、やはり個人的にメールでコンタクトするのは、余程のことだという感じが私にはあります。当時そちらのページにBBSがあったかどうかは思い出せないのですが、いずれにしても私はメールという手段を選んでいたでしょう。他の読者を巻き込んであなたとファースト・コンタクトを取るのではなく、まずは個人的に語りかけてみたい、と考えたのでしょう。そうしたのは今でも適当だったと思えます。
それまで、私にとってインターネットはリアル・ワールドで関係を形成した人々とのコミュニケーションの一手段でしかありませんでした。そして、1通の拙いメールをあなたに送ったことが、新しいコミュニケーションの可能性を開く原点となったのだと、今改めて思います。

その頃―インターネット・コミュニケーションがこれほどまでに発達する以前―、リアル・ワールドでの関係がない、または薄いところで、何らかのコミュニケーションを発生させることや持つことはかなり希有で特殊な事態とされていたような気がします。
それらを希有で特殊だとする前提には、コミュニケーションするそれぞれの主体はみずからのリアル・ワールドでの存在丸ごとを伴っており、そこから逃げ出してコミュニケートすることが不可能である、という認識があったのでしょう。つまりコミュニケーションとは、それを行う主体が生身の身体を持ってリアル・ワールドを生き、自我、欲望、業、そして自分が生きつつある時間、場所、役割や義務、絆や繋がり…を背負って行われているものであること、言い換えれば、コミュニケーションは主体が「主体」たる由縁を避け難く伴った上で成立していることを前提としている筈だったのです。主体が生身であること― 『"生身"性 』と呼びたいのですが―から、コミュニケーションは決して逃れられない、と極言しても差し支えないかもしれません。

例えば、リアル・ワールドで生きる私には、性別や年齢や職業や役割や…それこそ口紅の色から携えている文庫本のタイトルにまで、私の "生身"性 がびっちりと魚の鱗のようにはりついています。人はその "生身"性 越しに私を見るし、同じように私もその "生身"性 を足がかりに人と関わっていきます。当然のことです。それぞれの "生身"性 がその人の生と存在そのものであり、それが原点にあるからこそ、コミュニケーションは豊かで価値あるものとなっている筈なのです。

時にはしかし、やはり私は "生身"性 が息苦しくなることもあるし、そこから何とかして逃れられないのか、とも考えることもあります。もう少しシンプルな、様々な虚飾を取り払った 『ありのままの自分』でいられないか、 ありのままの誰かを見られないか、 自分をありのままに見定めてもらえないか、そんなコミュニケーションがなかろうか…、と思うのです。これは "生身"性 の内容の多寡や善し悪し、満足不満の問題ではありません。もちろん背負うものが多ければより "生身"性 がしんどいかもしれない。しかしここで強調したいのは 『ありのままの自分』への憧れの方。雑多で猥雑な "生身"性 に自分のありのままは覆い尽くされ、隠されてしまっているかもしれない。だけど本当は、生身の自分という総体の中にエッセンスとしての自分があり、それは純粋なまま抽出可能であるという自己認識が、いつしか誰の中にも存在するようになっているような気がします。その自己認識は "生身"性 を息苦しいものだとする感覚を増強するように働いているのではないでしょうか。

そんな 『ありのままの自分』への欲求を簡単に手っ取り早く充たせるものとして、インターネット・コミュニケーションが評価され、利用され、そこではコミュニケーションに避け難く "生身"性 が伴うというコンセンサスはほぼ忘れ去られつつあるように思えます。
自分自身の "生身"性 から離れ、その根幹である名前をハンドル・ネームに変え、『ありのままの自分』でネットワークの世界に飛び込んでいく。そこにはリアル・ワールドとは別の言葉の使い方があり、ルールがある。自分の "生身"性 の表出はかなり恣意的にコントロールできるし、極端な話、嘘をついてしまえば "生身"性 からもっとも離れることができる。逆に自分のある一部の生身だけを拡大させて表出することもできる。 『ありのままの自分』が実現する可能性がネットワークの中に見出されているのではないでしょうか。そしてそこでのコミュニケーションについても、互いがありのままであればこそ実現していると考えられているのでしょう。
ありのままに戻った人間同士のコミュニケーション。だからこそ可能な、リアル・ワールドでは実現不可能の、有機的なコミュニケーション。Silverboyさんとこんな風に往復書簡をやり取り出来ることこそ、互いが "生身"性 から少し自分自身をずらし、ありのままであることによって導かれ、有機的に機能しているコミュニケーションの一例だとも言えるのだろうと思います。

しかし、実は近頃―自分のサイトを立ち上げて以来なのですが、万人の自己認識の中にある、そして私自身の「ありのまま」が本当に 『ありのままの自分』なのだろうかと考えるようになりました。私はかなり以前からものごとのありのままの部分―本質や中核の在処という意味なのですが―そこに価値を重く置き、なるべくそこに自分を近づけ、その基準でものごとを見ようと心がけてきた自覚があります。そこに私が求めていたものが一体何だったのか、ということを考えているのです。「自分探し」や「自己分析」、「本当の自分」などという言葉の流行りは、 『ありのままの自分』への共通した憧れのあらわれなのだと思います。しかし、生身の自分を離れた自分など、果たして本当にありうるのでしょうか。雑多で猥雑な "生身"性 から抽出された純粋な自分なんて、所詮は見果てぬ幻想に過ぎないのではないか、そんな風に最近は考えつつあります。

『ありのままの自分』への過度なこだわり、それはともすると現実にリアル・ワールドを生きている生身の自分自身を見失うことになりかねない気がします。今、インターネット上に限らずコミュニケーション全体に、 "生身"性 が避け難く伴っているという前提が薄くなり、ともすれば "生身"性 を否定してしまいかねないムードに漠然とした危惧をおぼえることが、私の考え過ぎならば良いのですが。

そちらはまだまだ寒い日が続くことと思います。くれぐれもご自愛下さいますよう。


Sincerely yours, あるまじろう
2000.3.5



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