logo 「1Q84」に関する暫定ノート


この作品を読んで感じるのは、村上春樹はもう何も怖れていないということだ。

例えば、この作品では過去の村上作品との符合をいくつも見つけることができる。エリがドウタ即ち心の影を置いて森を出てくる描写は「世界の終わり」を思わせるし、リトル・ピープルは「TVピープル」を思い出させる。小学校の時の運命的な出会いがその後の生を実質的に決定してしまうというイメージは「国境の南」と通底しているし、年上の人妻との情事は「スプートニク」と共通している。

あるいはまた、村上は新興宗教という微妙なテーマも臆せず物語に取り込んで行く。「タカシマ塾」は「ヤマギシ会」を、「証人会」は「エホバの証人」を、そして「さきがけ」は必然的に「オウム真理教」を想起させる。「あけぼの」のエピソードは連合赤軍の山岳ベース事件やあさま山荘事件を下敷きにしているようだ。村上がオウム真理教の起こした地下鉄サリン事件の当事者にインタビューし「アンダーグラウンド」、「約束された場所で」という重要な作品を発表したことを思えば、こうした題材を作品で取り上げることはかなり際どい試みであるはずだ。

さらには、この作品のタイトル自体がジョージ・オーウェルの「1984」をそのままリファーしており、実際に物語の中でも「仕掛け」としてはストレート過ぎるとも思えるくらいはっきりとした「1984」への言及がある。この物語は家庭内暴力のような軽々に扱う訳には行かない題材さえも貪欲に飲み込んで行く。

だが、この作品では、過去の作品との共時性や現実のできごととの同期といった、文学的にはリスクともなりかねない要因を、村上が敢えて、あるいは進んで作品に導入していることが窺える。そこから発生し得るリスクを村上は承知した上で、しかしそれを村上はもはや怖れていない。なぜなら村上がここで目指しているもの、達成しようとしているものは「総合」であるからだ。すべての物語を包含し統合するさらに大きな物語。細部が全体を形成し、全体が細部を規定するような、重層的で立体的な物語の構造。ここで村上が志向しているのはそのようなものではないのかと思う。

物語の前半、村上は平穏で無垢なものを理由もなく損なって行く圧倒的で暴力的なモメントに対して、激しい怒り、憎しみを表明している。例えば子供の頃の青豆や天吾を深く傷つけた大人たちの偏狭さ、あるいは環を死に追いやった救いのない家庭内暴力を描くことで、村上は無知や驕慢、不寛容や独善といったものがいかに人を傷つけ、損なって行くかということを的確に、しかし厳しく告発している。それはその限りで正当な感情であり、従来から村上のいくつかの作品に通底しているものである。

しかし、後半になるとこうした単線的な世界観は大きな揺さぶりを受ける。リトル・ピープルが物語の中で次第に存在感を獲得するに連れ、善と悪の境界は曖昧になって行く。

「『この世には絶対的な善もなければ絶対的な悪もない』と男は言った。『善悪とは静止し固定されたものではなく、常に場所や立場を入れ替え続けるものだ。ひとつの善は次の瞬間には悪に転換するかもしれない。逆もある。(中略)重要なのは、動き回る善と悪とのバランスを維持しておくことだ。どちらかに傾き過ぎると、現実のモラルを維持することがむずかしくなる。そう、均衡そのものが善なのだ』」

それはまるで天吾や青豆のいる世界がいつの間にか月の二つある世界へと位相の変容を遂げてしまったように、僕たちもまた、善が善であり、悪が悪である世界から、善と悪が等価である世界へと移行してしまったのだ。それもおそらくは不可逆的に。

善と悪の区別が相対的なものであるということは、既に「海辺のカフカ」でジョニー・ウォーカーの口から語られていたことだ。

「こいつはね、善とか悪とか、情とか憎しみとか、そういう世俗の規準を超えたところにある笛なんだ。(中略)私はここに集めた笛を使って、もっと大きな笛をひとつこしらえようと思っているんだ。(中略)それだけでひとつのシステムになってしまうような特大級の笛だ。(中略)その笛が果たして結果的に善となるか悪となるか、そいつを決定するのは私じゃない。(中略)私がいつどこの場所にいるかによって、それは違ってくるわけだ」(「海辺のカフカ」)

リトル・ピープルは、ここでは青豆や天吾と対立するものとして描かれている。しかし、そのようなものでさえ単純な悪ではあり得ず、それは即ち、主人公である青豆や天吾が単純な善ではあり得ないということと同義である。

村上はここにきて、物語の前半では激しく嫌悪していた「平穏で無垢なものを理由もなく損なって行く圧倒的で暴力的なモメント」に強く傾斜して行く。あるいはそうしたものに対する強い興味、コミットメントが隠しようもなく膨らんで行く。なぜなら、それは疑いもなく僕たちの一部をなすものだからだ。僕たちが不可避的に抱えこんでいる、善でもあり悪でもあるような両義的な薄明のことを村上春樹は話しているのだ。

リトル・ピープルはトンネルを通ってくる。彼らはどこからやってくるのか。彼らは僕たちの内なる存在なのか、あるいは僕たちの外からやってくる者なのか。だが、ここにも両義性が横たわる。僕たちの内なる薄明は夜の暗さと直接つながっている。それは「ねじまき鳥」や「アフターダーク」でも示唆されていたことだ。そこでは自分と世界との境目が曖昧になる。自分は自分であって自分でない。もっとも忌むべきものは自分と最も不可分に結びついているものだ。リトル・ピープル的なるものは、そうした両義的な領域に棲みついている。だから僕たちは彼らのことを知っている。

村上は不可逆的な位相の変容を遂げた世界で、僕たちに告げる。この世界に自明のことなんて何もありはしないのだと。世界はその究極において両義的なものであり、AはBでありBはAであるのだと。僕たちはリトル・ピープル的なるものを激しく憎悪すると同時に、リトル・ピープル的なるものそれ自体でもあり得るのだと。

「我々の生きている世界にとってもっとも重要なのは、善と悪の割合が、バランスをとって維持されていることだ。リトル・ピープルなるものは、あるいはそこにある何らかの意思は、確かに強大な力を持っている。しかし彼らが力を使えば使うほど、その力に対抗する力も自動的に高まっていく。そのようにして世界は微妙な均衡を保っていく」

リトル・ピープル的なるものとそのカウンター・モメントは表裏一体であり、端的に言ってしまえば、究極においてそれらは同じものだ。僕たちは初めからそのようなものを含んで存在しているのだ。

村上はそのような世界の両義性、両義的な薄明を描くために、総合小説という巨大な器を必要とした。すべての細部を飲みこみながら圧倒的な物語を紡いで行くその装置が必要だったのだ。この物語はあるいは続いて行くかもしれない。だが、僕にはそれはもうどうでもいい。圧倒的な声量で物語は既に語られた。それは僕たちに当事者であることを要求する物語だ。この物語によって僕たちの世界は既に不可逆的に位相を変容させてしまった。僕たちはもう「1Q84」のない世界にはもう帰れない。僕たちはそのようにして取り返しのつかない不可逆的な毎日を生きているのだから。



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